批評 / 2026年8月25日

壊れたキッチュ

『恐怖分子』を見た。カメラの移動は、そこに映っていないものを意識させる。ラカンとジジェクは近代の主体を映画を見る観客に重ねた。年末のドゥームズデイに向けてMCUとX-MENを見ている。ウルフ『灯台へ』の第二部は、人がいなくなった家の十年を書く。そして生成AIの気持ち悪い食べ物の画像について——記号接地なんかより、AIにはキッチュができないということのほうが、人間には意味があると思う。

14分 · 8111字批評映画8月エドワード・ヤンヴァージニア・ウルフグリーンバーグ東浩紀ラカン

Kitsch is vicarious experience and faked sensations. 「キッチュとは代理の経験であり、偽造された感覚である」 ——クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」1939年1

註 1
「アヴァンギャルドとキッチュ」: クレメント・グリーンバーグ(1909–1994)が『パルチザン・レヴュー』1939年秋号に発表した評論。三十歳の税関職員が書いた最初期の論文でありながら、二十世紀の芸術批評でもっとも参照された文章のひとつになった。キッチュを「代理の経験であり、偽造された感覚」「機械的であり、公式によって作動する」と定義し、産業化と都市への人口移動が、読み書きはできるが余暇と教養を持たない大衆を作り出したことをその発生条件として挙げている。有名なピカソ対レーピンの対比(農民はレーピンを選ぶ、なぜならレーピンの絵には「反射された効果」が最初から含まれているから)については、後年、レーピンにはそもそもそういう戦争画がほとんどないと指摘され、グリーンバーグ自身が誤りを認めている。効果が予め絵の中に入っている、という論点そのものは、例が間違っていても生き延びた。生成画像について考えるときに手が伸びるのがこの八十七年前の文章だ、というのは、僕の側の蓄えの薄さでもある。

(偽造された感覚、まではわかる。問題は、偽造すべき本物を誰も持っていない場合である)

[Mr Ramsay, stumbling along a passage one dark morning, stretched his arms out, but Mrs Ramsay having died rather suddenly the night before, his arms, though stretched out, remained empty.] 〔ラムジー氏は、ある暗い朝、廊下をよろめきながら進み、両腕を差し出した。しかしラムジー夫人は前夜に急に亡くなっていたので、差し出された腕は空のままだった。〕 ——ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第二部「時は過ぎゆく」2

註 2
括弧の中の死: 『灯台へ』(1927年、ホガース・プレス)第二部「時は過ぎゆく」。第一部「窓」の一日と、第三部「灯台」の一日のあいだに横たわる十年間を、二十ページほどで通過する。ウルフは執筆前の日記に、この小説の形を「二つの塊を廊下でつないだもの」と書き、Hのような図を描いている。廊下の側で人が死ぬ。ラムジー夫人の死も、アンドルーが戦地で砲弾に当たったことも、プルーがお産で死んだことも、すべて角括弧に入れられ、本文は空き家の埃と風のほうを見つづける。死を軽く扱っているのではなく、死んだあとも家に風が吹くという事実のほうを、正確な比率で書いている。僕がこの引用を、この小説を読む前に日記の冒頭に置いてしまったことについては、まだうまく言い訳ができない。

(主人公の死が、括弧に入っている。括弧の外では、風が空き家を吹き抜けているだけである)


一フレームの外

エドワード・ヤン『恐怖分子』3を見た。

註 3
『恐怖分子』: 1986年の台湾映画。楊德昌(エドワード・ヤン)監督、小野との共同脚本。第23回金馬獎最優秀作品賞、翌1987年のロカルノ国際映画祭で銀豹賞。台北に暮らす三組——小説家の妻と昇進を狙う医師の夫、家出中の混血の少女、少女を偶然撮ってしまった裕福な家の写真好きの青年——が、一本のいたずら電話を介して接触する。少女は退屈しのぎに電話をかけ、妻はその電話をきっかけに夫のもとを去り、去った経験をもとに書いた小説で文学賞を取る。誰も他人を壊すつもりがないのに、全員が誰かの生活を壊している。台湾ニューシネマの中でも、侯孝賢の田舎と対になる「都市の側」の代表作とされる。

エドワードヤン神4。

註 4
楊德昌(1947–2007): 上海生まれ、台北育ち。国立交通大学で電気工学を修め、渡米してフロリダ大学で修士、南カリフォルニア大学の映画課程には入ったもののすぐに離れ、シアトルでコンピュータ関連の仕事を七年間していた。三十歳を過ぎてから台湾に戻り、映画を撮りはじめている。『牯嶺街少年殺人事件』(1991)、『ヤンヤン 夏の想い出』(2000、カンヌ監督賞)。2007年、五十九歳で没。設計者が設計をやめて映画に来た、という経歴は、あの動かないカメラと枠だらけの構図を見ていると、いちいち納得してしまう。納得しすぎるのはたぶん良くない。

ラカンとジジェクは近代の主体というものを映画をみる観客に重ねている5。 東浩紀が20世紀に人の認知を変えたのって、写真であり、映画だという話をしていた。 カメラの移動により、そこに映っていないもの・フレーム外のものが意識される。 それがラカンにとってのフロイトが無意識を発見した、ということである。

註 5
ラカンとジジェク: ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』(セミネール第11巻、1964年)。見る側の目(œil)と、見られていることのほうのまなざし(regard)を切り離す議論。世界の側から既に見られているという感覚が先にあって、見る主体はそのあとに来る。だから「自分がどこから見ているか」は自分では選べない。 ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(1989年)は、この構造を映画で説明することに一貫して成功した本である。なりたい像のほうに同一化するのが想像的同一化で、その像を格好いいと判定している視点のほうに同一化するのが象徴的同一化になる。フロイトが無意識を発見したというのは、意識の外に別の部屋があると言ったということではなく、見えているものが、見えていないものによって成り立っていると言ったということである。フレームの外を意識するというのは、それと同じ形をしている。

見えているものの中に、見えていないものを想像すること。 やっぱりそこには、性的なものや暴力も含めたたくさんの非定型な欲望があるので、それを撮ろうとしている映画で良かった。


二更地

『スパイダーマン ブランニューデイ』6も見た。映画はまぁまぁ良かった。

註 6
『スパイダーマン ブランニューデイ』: 2026年公開のMCU作品。デスティン・ダニエル・クレットン監督、トム・ホランド主演。公開前の情報では、マーク・ラファロのハルクやジョン・バーンサルのパニッシャーが顔を出すことが伝えられていた。原作コミックの「ブランニュー・デイ」(2007–08年)は、ピーターが悪魔メフィストとの取引で結婚の記憶ごと世界から消し、独身の青年としてやり直すという、読者の記憶だけが残る仕切り直しだった。積み上げたものを消して更地にする、というのはタイトルの時点ですでに宣言されている。まぁまぁ良かった、というのが正直な感想で、まぁまぁ良かったで済むことが、この規模の映画にとって何を意味するのかは考えないことにした。

その後、年末の『ドゥームズデイ』7に向けてMCUとX-MENを見ている。義務教育みたいになってきた。

註 7
『アベンジャーズ/ドゥームズデイ』: ルッソ兄弟監督、2026年末公開予定。2024年のサンディエゴ・コミコンで、ロバート・ダウニー・Jrがヴィクター・フォン・ドゥームとして登壇し発表された。アイアンマンを演じた俳優が、同じ枠組みの中で別人として敵役に戻ってくる。2025年には、20世紀フォックス版X-MEN映画の俳優たち(パトリック・スチュワート、イアン・マッケラン、レベッカ・ローミン、ジェームズ・マースデンら)の参加が公表された。買収された会社の映画に出ていた人たちが、買収した会社の映画に、当時の役のまま合流する。マルチバースというのは、物語上の設定である以前に、この事務手続きを物語として説明するための語彙である。

エンドゲームは越えられない。 俺等がキャップとトニー・スタークと過ごした時間を超えられては困るからな8。

註 8
ポータル: 『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)終盤、消えていた者たちが次々にポータルから戻ってくる場面。2008年の『アイアンマン』から十一年、二十二本ぶんの登場人物が一つの画面に集まる。あの数分の効果は、その画面の中の演出よりも、観客が十一年かけて積み立てた記憶のほうから供給されている。だから初見の人が見ても、たぶん何も起きない。感動が作品の外側に置かれている、という点において、あれはきわめてよくできたキッチュでもある。それでも僕は劇場で泣いた。泣いたことを、今のところ撤回する気はない。

ドゥームズデイは絶対に越えられない。 そしてもう一回エンドゲームをやるための時間もない。 マルチバースは別文脈を持ってきてその時間を一撃で圧縮できる装置。

マルチバースという空間的な広がりによって なんだってありになってしまった更地。

が今のMCUである。

絶対に越えられないものを越えるために作られる映画。 何をやっても意味がない途方も無さを感じながら作られる映画が面白くない理由がないと思うので、楽しみである。


三括弧の中

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』も読んだ。以前、青山の本屋に行った時に買ったものである。三週間前の日記の冒頭に、僕はこの小説から二箇所引用している。読む前に引用した。順番が逆であった。

読んでみて、小説の美的な形式というのは、この時点でもう完成されていたんじゃないか、というくらいすごかった。

二部は思弁的唯物論っぽいなと思った9。

註 9
思弁的唯物論/相関主義: カンタン・メイヤスー『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』(原著2006年、邦訳2016年、人文書院)。カント以後の哲学は、思考と存在の相関の外には出られないという前提(相関主義)を共有してきた、というのがメイヤスーの整理である。世界そのものではなく、常に「人間にとっての世界」しか語れない。彼が突破口に使うのが祖先以前性で、人類が出現する以前の出来事について科学が語る言明を、相関主義はうまく扱えない、と論じる。『灯台へ』の第二部は、まさに人間がいなくなった家の十年を、風と塩気と漆喰の落下として書いている。一部で二百ページかけて内面を書いた作家が、二部で観察者のいない世界を書きにいく。ウルフが哲学の議論を先取りしていたという話ではなく、人のいない家に何が書けるかという問題は、小説の側からも同じ形で立てられる、ということだと思う。

簡単にいうと、灯台へいくか、いかないか、で揉める家族の一夜の話が200ページ続く。 1夜で200ページなのだから、かなりくどくどした心情の描写やため息や内面がえがかれる。

ところがなぜか二部になった途端に、人はいなくなり、その家庭の家に誰もいなくなった10年を描く。 そこにあるのは物質としての家と、風と雨。

メイヤスーでいう相関主義を突き詰めた一部だが なぜか二部で人間なしの世界で、なにを書くことができるのか、という挑戦をしていてかっこいい。


四壊れたキッチュ

生成AIで作られた気持ち悪い食べ物の画像について思うこと。

チーズが伸び、肉汁が光り、湯気が立ち、断面が艶々していて、そして持っている手の指が七本ある10。皿とチーズが同じ物質でできていて、フォークの柄が肉に溶けている。

註 10
七本の指: 画像生成モデルが手を苦手としてきたのは、手が自己遮蔽(指が指を隠す)を頻繁に起こし、関節の自由度が高く、写真の中では小さく写るために学習信号が弱い、といった事情が重なるからだとされる。ここ数年のモデルではかなり改善していて、「指の本数がおかしい」は生成画像の見分け方としてはすでに古い。だからここで七本の指を持ち出すのは、実のところ現状の記述ではなく、症状の名前として使っている。壊れていることを指の本数で確認できた時代は、たぶんもう終わりかけていて、そのあとに残るのが本文で書いた「二回目の消化」のほうの気持ち悪さである。

料理はキッチュである グリーンバーグの言い方だと、キッチュは芸術を鑑賞者のために予め消化する(pre-digests)11。 労力を省いてやり、本物の芸術において必然的に難しい部分を迂回する近道を提供する。

註 11
pre-digests: 「アヴァンギャルドとキッチュ」の一節、キッチュは「鑑賞者のために芸術を予め消化し、彼から労力を省き、本物の芸術において必然的に難しいものを迂回する近道を与える」。この pre-digest という語を、料理の話に接続してよいのかは、正直わからない。グリーンバーグは比喩として書いており、料理批評をしているわけではない。ただ、加熱も、切ることも、発酵も、外部化された消化である以上、料理は文字どおり pre-digest する技術であって、比喩が比喩でなくなる場所がここにある。だから料理はキッチュだ、と言うとき、それは料理を貶していない。貶しているつもりが少しもないのに、キッチュという語を使うと貶したことになる、という語感のほうが問題なのかもしれない。

生成AIは大好きだが、身体がないのはそうだと思うし、記号接地12なんかより 「AIにはキッチュができない」ということの方が人間には意味があることだと思う。

註 12
記号接地問題: スティーヴン・ハルナッドが1990年に『Physica D』誌で定式化した問題。記号が別の記号によってのみ定義されていると、辞書だけで知らない言語を学ぼうとするのと同じで、どこにも接地しない。意味は感覚運動の経験に繋がって初めて成立するのではないか、という問い。生成モデルについて何かを言うとき、いちばん手が伸びやすい論点でもある。本文で書いたのは、その論点よりキッチュのほうが効くのではないか、ということである。キッチュは効果を予め届ける仕事で、その効果はどこかで誰かの身体に一度着地している。接地していないから駄目だ、という話ではなく、接地した誰かの代わりに配るという仕事が成立しなくなる、という話のほうが、こちらの生活に近い。

五スクリーンと触視的平面

東浩紀13が、二十世紀に人の認知を変えたのは写真と映画だ、という話をしている。

註 13
東浩紀のインターフェース論: 石田英敬との共著『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(ゲンロン叢書002、2019年3月。ゲンロンカフェでの三回の講義をまとめたもの)と、「触視的平面の誕生」(連載「観光客の哲学の余白に」第9回、『ゲンロンβ21』2018年1月)。以下は要約であって引用ではない。写真以前、世界を残すには人間が要った。肖像画には描いた人がいて、歴史には語った人がいる。写真と蓄音機と映画が出てきて、そこが変わる。機械が記録して、人間はあとから見る。誰が描いたのでもない顔、誰が語ったのでもない過去を、人類はこのとき初めて手に入れた。そのうえで二十世紀はスクリーンの時代だった、と東は言う。スクリーンは窓である。向こう側に何かがある。だから見る私はこちらにいて、見られる世界はあちらにある。二十一世紀の面は触ると動く。東はこれを触視的平面と呼ぶ。重要なのは、その面の向こうに風景が無いことだ。地図をピンチアウトしても世界に近づいてはいない。別の解像度のデータが呼ばれているだけである。

そのうえで二十世紀は、スクリーンの時代だった、と東は言う14。

註 14
スクリーンの時代: 東浩紀「触視的平面の誕生」、連載「観光客の哲学の余白に」第9回、『ゲンロンβ21』2018年1月。二十世紀=スクリーン(映画)の時代と、二十一世紀=タッチパネルの時代を対比する。第10回(β22)に続きがあり、第14回(β35)が番外編。二十世紀の人間は世界をスクリーンとして捉えた、という言い方をしている。ここでも要約である。付け加えると、この対比を受け入れると、僕が映画館で得ている快楽は、既に一世代前の身体の快楽だということになる。それでも劇場に行く理由を、まだうまく書けない。

スクリーンは窓である。向こう側に何かがある。 だから見る私はこちらにいて、見られる世界はあちらにある。 主体と客体という二十世紀の哲学の構図そのものが、暗い部屋で身体を動かさずに大きな面を一方向に眺める、あの姿勢に対応している。

『恐怖分子』は一九八六年の映画である。キットラーが『グラモフォン・フィルム・タイプライター』を出した年15と同じ年に 楊德昌は、電話と写真とテレビと小説が偶然に接続して人の生活が変わっていく都市を撮っていた。 中心に全部を見ている主体はいない。

註 15
『グラモフォン・フィルム・タイプライター』: フリードリヒ・キットラー、1986年、ベルリン刊。蓄音機・映画・タイプライターという三つの機械を、ラカンの現実界・想像界・象徴界にそれぞれ対応させて論じる。人間の意識ではなくメディアの物質的条件のほうが先に来る、という立場を取る。刊行年が『恐怖分子』と同じ1986年なのは偶然だが、偶然にしてはできすぎている。片方は台北のアパートの窓越しに、もう片方はドイツ語の理論として、同じ年に同じことを言っている。

『恐怖分子』の壁の写真16もそれ自体が欲望であり、少女のいたずら電話は、電話という先の見えないネットワークのなかで、別の欲望に変換される。

註 16
壁の写真: 青年が少女の顔写真を引き伸ばし、複数枚の印画紙に分割して廃屋の壁一面に貼る。風が入るとその紙が波打ち、顔が崩れてはまた戻る。分割してから統合する、という手順が、この映画のモンタージュそのものと同じ形をしている。カメラが動かない映画の中で、画像だけが自分で動いている。この一場面のために『恐怖分子』は記憶されている、と言ってもいいと思うが、そういう言い方をすると「画像が動く」ということの気持ちよさだけを取り出して持ち帰ることになる。それはこの日記の後半で僕が批判している態度と、あまり変わらない。

そして、生成AIも欲望の投影対象だと思うのだが KVキャッシュのなかで、MoEのなかで17、欲望がデコードされエンコードされていくなかで

註 17
KVキャッシュ / MoE: どちらも大規模言語モデルを動かすための仕組み。KVキャッシュは、自己回帰的に一語ずつ生成するとき、過去のトークンについて計算済みのkeyとvalueを保持しておいて再計算を避ける仕掛けで、これがないと生成のたびに文全体を計算し直すことになる。MoE(Mixture of Experts)は、層の中に複数の専門家ネットワークを置き、ルータがトークンごとにその一部だけを起動する構成で、パラメータの総数を増やしながら一回あたりの計算量を抑える。どちらも、保持と選択の仕組みである。欲望という語をここに接続するのは比喩であって、モデルの中に欲望があるという主張ではない。ただ、保持されたものと、そのつど選ばれるものの関係だけを取り出すなら、形は似ている。——この段落は書きかけである。

Cosmic Dance / 2026年8月25日
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