日記 / 2026年8月29日

三塁打はなかった

雨のハマスタ。2500円のポンチョを買い、びちゃびちゃの焼売を食べ、三塁打を待ったが三塁打はなかった。唯一の得点シーンはトイレで見逃した。盛り上がらなかったデートの帰り、都立大のマルカンで、彼女は元アイドルだったと打ち明けてきた。

4分 · 1789字日記8月野球アイドル村上春樹蓮實重彦

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 ——村上春樹『風の歌を聴け』1

註 1
『風の歌を聴け』: 村上春樹のデビュー作。1979年、第22回群像新人文学賞。引用したのは冒頭の一文で、正確には作中の架空の作家デレク・ハートフィールドをめぐる語りの書き出しにあたる。完璧なものが存在しないという言明を、絶望のほうを例に取って裏づけるのがこの一文の妙で、要するに、悪いほうもまた完璧にはならない、と言っている。

「三塁打は今日のプロ野球にあって一つの不条理であるが故にその存在理由があるのだ」 ——草野進2

註 2
草野進: 1980年代にプロ野球批評を書いた評論家。蓮實重彦の筆名とされる。打者が走り、九人の野手が同時に動き、しかも十秒で終わる——三塁打が称揚されるのは記録としての価値ではなく、その運動の複雑さのためだ、という立場を取る。ホームランは打った瞬間に全員が動きを止めるので、この基準では最も退屈な打球ということになる。なお本文冒頭に置いた一文は手元の記憶によるもので、逐語の引用として確認が取れていない。原典に当たるまでは趣意の要約として読んでほしい。

またアイドルだった。

土曜日。こないだ青山ブックセンターに行った女の子とハマスタに野球を見に行った。

雨が降るとは思ってなかった。 試合前から雨が降っていたのでファミマで2500円のポンチョを買った。 試合中ずっと降っていた。

びちゃびちゃの焼売や餃子を食べた。

村上春樹は神宮の二塁打で小説を書き始めたらしい3。 ぼくは三塁打を見られなかったので、この日記を書いている。

註 3
神宮の二塁打: 1978年春、神宮球場でヤクルト対広島を観ていた村上春樹が、デイヴ・ヒルトンの二塁打を見た瞬間に「そうだ、小説を書こう」と思った、という有名なエピソード。本人が『職業としての小説家』などで繰り返し語っている。打球はレフト線へ抜けた、とされる。二塁打で小説が始まるなら三塁打では何が始まるのか、という問いは、たぶん誰も引き受けていない。

初めてのバックネット裏での観戦。 蓮實重彦(草野進)によれば、三塁打はほんの十秒ほどの間に九人の野手に最も複雑な運動を実現させるがゆえに素晴らしい、らしい。 三塁打を楽しみにしていったのだが、三塁打はなかった。

なんならホームランをトイレで見逃した。 そしてそのソロホームランが唯一の得点シーンだった。

ちなみに野球観戦デートは一ミリも盛り上がらなかった。 事務職ネキがオオム返ししかしない、気の利いたことを言わないので、ずっとイライラして見ていた。

もうめんどくせ=、二度と会わなくていいやー、コレで最後にしよー、と思いながら 都立大のマルカンでバスクチーズケーキを食べた。

ぼくがmaison book girlが好きだという話になり4 その流れで「実は元アイドルだったんだよね」と打ち明けてきた。

註 4
maison book girl: 2014年結成、2021年解散。サクライケンタによる変拍子の楽曲とポエトリーリーディングを特徴とした。アイドルという枠に現代音楽の手つきを持ち込んだグループで、この名前を出すと相手の反応で相当のことがわかる、という機能を果たすことがある。この日もそう機能した。

水曜日のダウンタウンのアイドルだったらしい。 ちなみに豆柴の大群にはぼくの高校の同級生もいる5。

註 5
豆柴の大群: 『水曜日のダウンタウン』の企画から2019年に生まれたアイドルグループ。番組が母体であるという出自そのものが、グループの意味の一部になっている。テレビの企画から生まれた人たちが、いまは同級生であり、いまは目の前でチーズケーキを食べている人の前歴でもある、という距離の詰まりかたのほうが、この日記の主題よりよほど不条理かもしれない。

なんでまたアイドルなんだ。 バンブルで二連アイドル。

三塁打も、気の利いた会話も、この日はひとつもなかった。 一ミリも盛り上がらなかった土曜日にも、たぶんその存在理由がある。

このまま突っ走って立花琴美さんまで到達するしかない。

Cosmic Dance / 2026年8月29日
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