木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
——島崎藤村『夜明け前』第一部 序の章1
註 1
『夜明け前』第一部 序の章: 島崎藤村、1929–1935年に『中央公論』連載。主人公・青山半蔵のモデルは藤村の父、島崎正樹で、舞台は木曾の馬籠宿である。有名なのは冒頭の一文だが、引用してみると分かるとおり、この小説は人物からではなく地形から始まる。崖の道、川の岸、谷の入り口。そのあとに「一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」と来て、ようやく人の通る場所の話に成る。事件が起こらないところから始めてよい、というより、地形を先に置かないと事件のほうが立たない、という順番に成っている。/なお本文の文体は、この小説と『千曲川のスケッチ』を実際に数えたうえで寄せてある。青空文庫版『夜明け前』第一部上の地の文四千四百三十五文を数えると、「である。」で終わる文は二・七パーセントしかない。冒頭のあの一行があまりに有名なので「である体」だと思われているが、藤村の地の文の本体は「――た。」「――であった。」「――ていた。」「――て来た。」で、要するに過去形の平叙である。「て来た」「て行った」という移動の助動詞が万字あたり二十三回出て来る。人も季節も噂も、藤村の文では必ずこちらへ来るか、向うへ行くかしている。「など」は書かず、ぜんぶ「なぞ」と書く。文頭の「そして」は四千四百三十五文中に三回しかない。
(人が一人も出て来ない。事件も起こっていない。地形の説明だけで小説が始まってしまっている)
一
八月十三日2、学芸大学のレンタカー屋までLuupで向かった。
註 2
八月十三日: 盆の迎え火の日。多くの地域で、この日の夕方に火を焚いて先祖を迎える。同時に帰省ラッシュのピークにあたり、中央道下り線はこの日、例年もっとも長い渋滞に成る。七時に出れば渋滞に突っ込むはずのところを、下道で二時間ほど遅らせて入ったので、結果として山を越えた。避けようとして避けたのではない。避けられないものに阻まれて、その阻まれ方のおかげで避かった。
途中から雨が降って来て、着くころには二人ともかなり濡れていた。盆の朝の雨は思ったより冷える。これから川に入りに行くのに、と思う。台風の来ないお盆であった。
七時に出た。中央道は混む、と飲み屋のおじさんにもNEXCOにも口を酸っぱくして言われていたので、かなりの時間を覚悟していた。
高速道路の入り口で、ETCカードを借りていないことに気がついた。3
註 3
ETC専用化: 国土交通省は2020年に高速道路料金所のETC専用化の方針を示し、2022年から首都圏を中心に順次「ETC専用料金所」が導入されている。ETC非搭載車が誤進入した場合はインターホンで係員を呼び、後日精算する運用に成っている——つまり実際には、降りて聞けば通れた可能性が高い。通れなかったのではなく、通る手続きを踏まなかった。府中まで下道で走ったのは、事故でも不運でもなく、その場でインターホンを押さなかったという一つの選択の結果である。そう書くと話が小さく成るので、本文では「入れない。出られない。」と書いた。書きながら小さくしなかった自覚はある。
料金所の手前には車線が二つあって、そのどちらにもETC専用と書いてある。うしろには盆の車が数珠つなぎに続いていて、後退のきく余地はもうなかった。降りて係の人を呼ぶという手もあったが、その時はそれを思いつかなかった。一般の車線のある入り口まで行けばよいという話をしながら、下の道をそのまま進んだ。
〔入れない。出られない。〕
学芸大学から府中まで、到頭ずっと下道であった。府中の辺りでようやく高速に乗ると、覚悟していたよりは流れている。
二
笹子を越え、甲府の盆地を横切って、韮崎、小淵沢、富士見と、だんだん高いところへ登って来た。耳が詰まって来る。窓の外の温度が下がって行くのが、窓を開けなくても分かる。
雲が切れて来た。
下諏訪まで来ると、甲州街道はそこで終わって、中山道に成る。4
註 4
甲州街道と下諏訪宿: 国道二十号は東京・日本橋を起点に、笹子峠を越えて甲府盆地を抜け、諏訪を経て塩尻に至る。江戸五街道のひとつ甲州道中をおおむねなぞる道である。五街道のうち甲州道中だけは江戸と京を結んでおらず、下諏訪で中山道に合流して終わる——それ自体が目的地を持たない街道である。下諏訪宿は中山道二十九番目の宿場であり、甲州道中の終点でもある、五街道で唯一の「街道どうしの接続点」。諏訪大社下社秋宮の門前町で、宿場としては珍しく温泉が湧いていた。二本の街道が一本に成る地点を車で通過する間、車内では何も起こらない。標識の下二桁が20から19に変わるだけである。信号と対向車と右折待ちが省けないのは、この道が集落を避けずに通っているからで、街道とはもともとそういうものだった。高速道路は集落を避けるために造られている。
三
諏訪に着くころには、嘘みたいに晴れていた。
十一時すぎ。鰻屋の前まで来ると、店に入る前からタレの匂いがしている。蝉が鳴いている。夏休みだ、と思った。
あぁ、良き天気 日本の夏 蝉の声 今静かにして樹の下に宿れるなり
籠池の口上だったか何だったかを諳んじながら、鰻を待った。5
註 5
諏訪湖の鰻: 諏訪湖から天竜川が流れ出しており、かつては海から遡上した天然ウナギが多く獲れた。とくに湖の西端の岡谷市は「うなぎのまち」を掲げ、人口あたりの鰻店の数と消費量が全国有数である。現在流通しているものの大半は他所産の養殖だが、食べ方の文化のほうは残っている。なお『夜明け前』第一部上の全文を検索しても「鰻」の字は一度も出て来ない。木曾は山の中であって、この二日間で唯一、藤村の語彙の外にあったのが、この昼食である。四千五百円という値段も、藤村の語彙の外にある。
うな丼はうまかった。四千五百円で、二人で九千円近い。前の日記にも九千円が出て来る。同じ額を、今度は二人で食べてしまった。
食べ終わってから湖を見に行くと、盆地に水の溜まっているだけの、動かない水面が拡がっている。向う岸の見えるほどの大きさで、見えてしまうと、湖は案外すぐに見終わる。ボートがある。鴨もいる。
ここでもまたETCの問題にあたって、諏訪から木曾までも下の道で行くことに成った。
四
塩尻から国道十九号6に入ると、道は間もなく木曾川に添うように成る。旧中山道、と看板に書いてある。
註 6
国道十九号(木曾路): 名古屋から塩尻を経て長野に至る。塩尻以南は木曾川に沿って木曾谷を貫き、中山道の木曾十一宿をほぼなぞる。谷が一本しかないので、街道も、鉄道(中央西線)も、国道も、すべて同じ川筋を通るしかない。選択肢のなさが地形によって決まっている道である。すれ違うトラックが多いのは、これが観光路ではなく中京圏と信州を結ぶ物流路だからで、旅行者はこの道では常に少数派として通る。藤村は同じ谷を「東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた」と書いている。添う、という語はこちらが考えたものではなく、藤村から借りた。
添う、というのがこの道の全部である。川があり、その脇のわずかに平らなところを道が通り、道の脇に家が並んで、家の裏はすぐ山に成っている。谷は一本。道も一本である。トンネルがあり、橋があり、またトンネルがあって、木曾福島、上松、寝覚の床の看板なぞが次々に過ぎて行く。
名古屋の方から荷を積んだトラックが幾台も連なって降りて来る。川を挟んだ向う側には、同じ谷を通る中央西線の線路が見える。
両側の山が近い。檜であるらしい。7
註 7
木曾五木: 藤村自身が『夜明け前』の中で説明している。「檜木、椹、明檜、高野槇、※――これを木曾では五木という」。木曾山を管理していた尾張藩は山を巣山・留山・明山に分け、巣山と留山には村民の立ち入りを許さず、自由林である明山でも五木の伐採だけは許可なしにはできなかった。「木一本首一つ」という言い伝えのほうは俗諺で、小説には出て来ない。取り締まりの記憶として語られることが多いが、結果として日本有数の天然林が現在まで残り、伊勢神宮の式年遷宮の御用材もここから出る。窓の外の山が濃く見えたのは、その規制の三百年後の姿である。何もしないこと(伐らないこと)が、これだけの時間をかけると景色に成る。
途中のスーパーで、夜の肉と野菜を買った。かごに入れるものを二人で選んでいる時間が、この日で一番、旅行らしかった。
五
日の暮れる少し前に大桑村8に着いた。
註 8
大桑村: 長野県木曾郡、人口三千人台。中山道の須原宿・野尻宿を擁する。藤村はこの二つの宿場を序列として名指している——「木曾十一宿はおおよそ三つに分けられて、馬籠、妻籠、三留野、野尻を下四宿といい、須原、上松、福島を中三宿といい、宮の越、藪原、奈良井、贄川を上四宿という」。つまり泊まった村は、下四宿と中三宿の境目にあたる。また須原の定勝寺には、天正二年(1574年)の修造工事の際の寄進記録に「振舞ソハキリ」の文字があり、これが現存する「そば切り」——蕎麦を麺として切って食べる形式——の最古の文字記録とされる。日本人が蕎麦を麺として食べた最初の記録が残っているのが、この村である。滞在中、蕎麦は食べていない。スーパーで肉を買った。
グランピングと呼ばれる形式の宿である。9テントの形はしているがテントを張らなくてよく、火は着火剤に添加するだけでよく、皿も水回りもすべて整えてある。おまけに足湯まである。
註 9
グランピング: glamorous + camping。2000年代半ばに英国で言葉として広まり、日本では2015年前後から施設が急増した。テントの形式を保ったまま、設営・炊事・撤収という「しなければならないこと」を全部あらかじめ済ませてある。キャンプの本体が労働であったとすれば、グランピングはその労働を除去した残りである。除去した残りに何が残るかというと、火と、音と、暗く成るのを待つ時間と、足湯が残る。何も起こらないのは施設の不備ではなく、設計どおりの帰結である。何も起こらない状態を金で買っておいて、あとから「特段ない」と言っている。
肉を焼いて、火を見ていた。火を見ている間は喋らなくてよいことに成っている。
空には厚い雲がある。星は一つも出ていなかった。明日は川に入るというのに、この調子では難しい、と思った。
夜中、雷が鳴りきりに鳴る。二人で足湯に入って、稲妻の出るのを待った。光ってから音の来るまでを数えると、まだ山の向うらしい。湯の中で足だけが熱い。
眠くなったので寝た。
六
八月十四日。びっくりするほど晴れている。
阿寺渓谷10へ行った。車を停めて川まで行くと、水は写真で見た通りの色をしている。
註 10
阿寺渓谷: 大桑村を流れる木曾川支流・阿寺川の渓谷。「阿寺ブルー」と呼ばれる水色で知られる。花崗岩の岩盤と、上流域の木曾檜天然林による濾過が、あの透明度と発色をつくっているとされる。水温は真夏でも十度台前半から半ばにとどまる。夏季には自家用車の乗り入れが規制され、入口の駐車場からシャトルバスに乗り換えることに成る——一時間並んだのはそのためで、規制があるからあの水が保たれている、という順番に一応は成っている。注7に書いた尾張藩の停止木と、このマイカー規制は、三百年隔てて同じことをしている。透明な水は深さの目測を狂わせる。底が見えるほど浅く見えるが、実際は見えているだけで浅くはない。
目的地までは、そこからバスで十五分ほど山を登るらしい。列に並んで一時間近く待った。待っている間に日が高く成って、腕の焼けて来るのが分かる。丁度昼ごろに渓谷に着いた。
川に入った。
冷たいという語では、この温度には足りない。足首まで入れたところで脛の骨のあたりが痛く成る。十五度。サウナの水風呂と同じくらいである。
腿まで入って、そのうち慣れて来たので、少し泳いだ。
彼女は水泳部の出であるらしく、平泳ぎでスイスイ行ってしまう。それから浮き輪を膨らませて、ビーチのようにはしゃいでいる。木曾谷の、花崗岩の、十五度の水の上に、浮き輪が浮いている。
二十分ほどで上がって、日の当たる岩の上で足を乾かした。同じように上がって来た人が、そこらじゅうの岩の上にいる。岩は熱い。足の裏だけが熱く、脛から下は冷えていて、身体の中で温度が二つに分かれているのが、そのままずっと気持ちがよかった。
七
帰りも下の道で、行きと同じ道を逆の向きに走った。塩尻、下諏訪、富士見、小淵沢、韮崎、甲府、笹子。行きに見た看板を、今度は反対の側から見る。
日が暮れて対向車の灯が増えて来て、増えたころには、もう長野ではなく成っていた。
八
〔特段ない。〕
前の日記11には出来事があった。三十七度があり、九千円があり、翌朝の問いがあった。今度は、鰻を食べ、川に入り、火を見た。それだけである。
註 11
前の日記: 「五十対の目」(8/1)。あの日は出来事のほうが多すぎて、五十対の目でも足りない、という引用を持って来る必要があった。今度は逆で、二つの目で十分に見終わってしまう二日間である。足りているのに書くことがある、という状態を扱う語彙を、こちらは持っていない。持っていないので借りた。藤村が『千曲川のスケッチ』でやっているのは、牧夫に会い、牛が塩を舐め、谷に百合が咲いている、というそれだけのことを、事件に仕立てずにそのまま書くことである。あの本には出来事が一つもない。それでも本に成っている。/なお青山ブックセンターで本に払ったのも九千円であった。同じ額を、片方は一人で本に、片方は二人で鰻に使った。前の日記では「後から伴う痛み」と書いたが、今度は痛みが来なかった。
けれども藤村は、木曾路を、すべて山の中である、とだけ書いて、それを小説の一行目に置いた。そこには誰もいない。事件も起こっていない。地形しか書かれていない。
こちらの二日間にも地形があった。甲府の盆地があり、峠があり、諏訪の水があり、木曾の谷があり、阿寺の水温があった。朝の雨があり、蝉があり、山の向うの雷があり、十五度の水に浮き輪があった。その上を、二人で、時速四十キロで、順番の通りに通って来た。
九
彼女には彼氏がいる。知り合って三ヶ月ほどになる。
四十時間ほどの旅行のうち、殆んどは車に乗っているだけであった。それでも、ずっと機嫌がよかった。この二日間がどこへ続いているのかは分からない。木曾川は谷を出て、伊勢湾まで行く。こちらの道のほうは、笹子を越えて帰って来たところで途切れている。12
註 12
木曾川: 木曾谷を出たあと美濃・尾張の平野を流れ、長良川・揖斐川と並んで木曾三川を成し、伊勢湾に注ぐ。全長およそ二百二十九キロ。谷の中では道と鉄道を一本の線に束ねていた川が、平野に出た途端に幅を広げ、行き先の決まった大きな川に成る。/末尾を「……」で終えたのも藤村から借りた。『千曲川のスケッチ』では、章の終わりが句点で閉じられずに点線で開いたまま残されることが、八百十八段落のうち四箇所ある。牛の群れが見えているところで切れて、次の章になる。閉じないという選択が、あの本ではそのくらい貴重に使われている。こちらの二日間についても、いまのところ閉じる理由がない。
けれども、いま思い出しているのは別のことである。
十五度の水の上に、浮き輪が浮いている。その上で、彼女がビーチのようにはしゃいでいる……