日記 / 2026年8月1日
五十対の目
三十七度の渋谷。バンブルで会った人と宮益坂を登り、青山ブックセンターで九千円ぶんの本を買い、外苑前でビールを飲み、碑文谷公園のベンチに座った。翌朝、また泊まりに来ていい?と聞かれて、いいよ、と言った。何に同意したのかは分からないまま。
We are in the hands of the Lord. 「私たちは主の御手のうちにある」 ——ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部「窓」11章1
註 1
(この直後、ラムジー夫人は自分に苛立つ。意味してもいないことを口走らされた、と感じて)
Fifty pairs of eyes were not enough to get round that one woman with. 「一人の女をぐるりと捉えるには、五十対の目でも足りなかった」 ——同 第三部「灯台」2
註 2
土曜日バンブル活動だった。3
註 3
三十七度、と誰かが言ったのだったか、それともスマホの数字を見ただけだったか、とにかく三十七という数はその日ずっとどこかに浮かんでいて 地下から地上へ運ばれていく途中で、これは登らなければならない日だ、と思ったのを覚えている。ハチ公出口。A8出口。 M!LKの事務所のアイドルグループの看板。こないだまでスパイダーマンだったのに。人が次々に吐き出されてくる、順番に、そのなかの一人として出ていくとき、待っている側からは自分がどう見えているのかということを、階段の途中では考えない。
サンダルだった。ドクターマーチンの黄色い刺繍の、黒い革、足首に金具のついた、真夏には重すぎる靴。 アプリの写真より、、、と思って、顔を覗き込むのをやめた。向こうも同じことを思った気がしたので、、2人で青山ブックセンターまで歩く予定だったので、お互いに顔を覗き込まないまま並列であるいた。
宮益坂4。アスファルトが柔らかくなっていて、汗が背中を降りていく。坂の上のほうでは互いに黙ってるしかなくなった。暑すぎて初対面の会話どころではない。
註 4
登りきったところで横にあった額が、濡れていた。前髪がひたひたに貼りついて、そのまま彼女は直さなかった。
「ひたひたのわかめみたいになっているよ」と言うと目があった。 へへへ、といいながらいやらしくなく笑っていた。可愛かった、けれど顔に出ていて、こちらが受け取ったことも伝わっていて、伝わったことを二人とも黙って処理した。
冷気。 多和田葉子5が好きです、と彼女は言った。
註 5
小説の棚6を一周する。 ピンチョン、と手が取っていた。ウルフ、と手が取っていた。ブラジルのウルフと呼ばれた女7、それも取り、多和田葉子 ——これは彼女のためではない、と自分に言い、「ずっと読みたかったんだよね」などと言いながら、手に取った。
註 6
註 7
村田沙耶香8を一緒に読みましょう、と彼女が言った。読みましょう、というのは次があるという意味で、次がある。
註 8
〔九千円。〕
金額はその場では大したことがなく、後から伴う痛みである。それを知りながらその痛みを引き受けるとき、いくらか気前がよくなり、気持ちよくなっている。
パフェの器に水滴が集まり、集まっては落ち、紙のコースターを濃くしていった。 前かがみでストローの刺さったアイスコーヒーを飲む前髪は乾いていた。 向かい合わせで座っていた。
白い、と思った、異常なほど。目が大きい。唇が薄い。半導体装置の会社で事務を、と彼女が言い、装置、と繰り返しながら、これは終わった、、、と思った。 事務職と看護師と銀行員はつまらないと相場は決まっている。
装置というのは大きいのか小さいのか、とは聞かなかった。露光装置9がバカでかいことくらい知っているから。
註 9
そうして村田沙耶香の短編を黙々と2人でよみ、ニヤニヤしながら感想というほどでもない感想を言い合った。
外苑前の銀杏の下は、光が篩われて落ちてきて、風のたびに震えた。 改造車が低く唸って通り、路上のスキニー男たちが写真を撮っていた。
ヤクルト阪神戦の直前だった。
九百円のビール。喉が渇いていた。 球場のなかで歓声が上がったのを、聞きながら僕らはまた汗だくになっていた。
学芸大学に行きたいと彼女が言った。鳩の湯の暖簾。ビール。 ぼちぼち飲んで、いい加減話すこともなくなったので、駅まで行った。
もう一軒行きたい、というので、適当なハイボールを飲んだ。
気づいたら碑文谷公園10にいた。池の水は動かなかった。 鴨が数羽、自分の形を水面に置いたまま。帰りたくない、と彼女は言い、ベンチは昼の熱をまだ持っていて、木々のむこうを電車が過ぎ、過ぎ、また過ぎた。
註 10
〔泊まっていった。〕
翌朝——また泊まりに来ていい?
はにかんでいた。何を確認したかったのか。 泊まっていいかということでは、たぶんなかった、泊まったのだから。 次があるかということだったのかもしれず、けれど次があるかを聞くなら別の聞き方があるはずで、それは選ばれなかった。あるいは、昨日のあれはあなたにとって何だったのかということだったのか。 そう聞かれたのだとして、こちらに答えがあったかというと、なかった。あるいは何も確認しておらず、ただ言葉が出ただけだったのかもしれない。
わからない。わからないまま、いいよ、と言った。言ったあとに、いま自分は何に同意したのだろうと思い、思いながら、彼女が靴を履いていた。金具を留めるのに少し時間がかかっていて、その時間のあいだ、ひたひたの額のことを考えていた。
そしてアチアチの外に出ていった
みんなの今日