日記 / 2026年7月25日

渋谷の屋上で、アイドルがこちらに手を振っている。

梅雨明け前夜、渋谷の屋上ライブでアイドルが手を振る。恋人としてでもオタクとしてでもない僕の手は、動かないまま身体の脇にぶら下がっていた。

5分 · 2296字日記7月アイドル

手が上がった。

それは僕に向けられていた。前にいるオタクたちへ、ひとまとめに投げられた手ではなく、人と人のあいだを縫い、午後の光を横切って、まっすぐ僕のところまで来る手だった。彼女は僕を見つけていたし、僕もそれを知っていた。 恋人なら振り返せばよい。オタクなら、もっと大きく振ればよい。しかし、恋人として振るには屋上は明るすぎ、オタクとして振るには昨夜の暗闇がまだ指に残っていた。 僕の手はどちらの手にもなれず、身体の脇にぶら下がっていた。

キックが鳴った。遅れて、グループの六人の声が来た。

客の胸ほどの高さに置かれたヤマハのDXRらしきスピーカーから放たれた音は、前列に並ぶオタクたちの背中にぶつかり、削られ、吸い込まれ、こちらへ届くころにはキックと声だけになっていて、音像はトラップみたいだ。ギターも、上物も、声を支えるはずの何かも聞こえない。 梅雨が明けたらしい。

正確には、二日後の月曜日になって、梅雨は明けたと発表される。けれど土曜日の身体はもうそれを知っていたのだろうか。毎年、梅雨の終わりになると吐き気がする。胃には何もない。それでもぼくの胃は、もう何千回聞いたかわからない山下達郎のSPARKLEのカッティングのギターさながら、初夏を切り刻むように痙攣する。

キックがもう一度鳴り、その音が、昨夜アイドルに指摘された心臓の音と重なった。

「ドキドキしているのが伝わってくる」

新宿の映画館。予告編。金曜日。梅雨明けの三日前。彼女の手は僕の手のなかにあり、スクリーンから来る白い光が、ときどき二人の指を浮かび上がらせた。 怖かったら嫌だな、と僕は思っていた。怖くなれば握る力が強くなるだろうか。そうなれば彼女はまた、心臓だけではなく、手まで、と言うだろうか。映画自体は全く面白くないし怖くないし、予告編での緊張を心拍数が超えることはなかった。

ブリング・ハー・バックを見た。 黒沢清と『ヘレディタリー』と『マリグナント』くらいしか観ていないので、ホラー映画についてはほとんど興味がない。 ただ『マリグナント』を観た夜、劇場で笑ったことは覚えている。あの映画は恐怖を突き抜け、あまりに遠くまで走ってしまったため、笑いながら追いかけるしかなかった。 アイドルもマリグナントが好きらしい。まぁそこまで彼女が言うなら、と思い、華金の金曜日にぼくたちはホラー映画を見ることにした。

ホラー映画は怖がらせなければならない、と僕は思う。では、怖がらせるとはどういうことか。

突然、大きな音を鳴らす。いわゆるジャンプスケア。 傷口を見せる。胃を縮ませる。いわゆるゴア描写 廊下を長くする。扉を開けない。何も起きない時間を、何かが起きる時間より長くする。いわゆる、、、?

結果的にどの方法も不自然な映像になる。不自然なパン、不自然な被写界深度、不自然な長回し、不自然な切り返し。 ブリングはーバックは、iPhone Youtube以降の映画という感じがして、その不自然さがチャラい映像になっている気すらして、うんざりだった。

映画館を出ると新宿は明るく、僕らは歩きながら感想を確かめ合った。怖くなかったね。おもしろくもなかったね。よくできてはいたよね。

そして土曜日。 昼は蕎麦屋で日本酒を飲んだ。

最近、僕はそれを好んでいる。正確には、蕎麦屋で日本酒を飲む自分を、ツウっぽいと思って、少し好んでいる。ふらりと入り、酒を飲み、蕎麦で締め、長居をしない。蕎麦飲み。蕎麦前。サク飲み。

日高屋で餃子とビールを頼むのとは違う美的な形式があるように感じている。

蕎麦屋を出て、僕らは学芸大学の駅へ向かった。東横線は止まっていた。ホームへ向かう人と、ホームから戻される人と、スマートフォンを見ている人と、何もわからず改札を見上げている人。 電車が線路に置かれた文鎮みたいになり、どこへいくこともできなくなった社内はリミナルスペースみたいになる。吐くものを吐けずに痙攣しているようだった。

空には、今にも黒く光りそうな雲があった。

モバイルバッテリーが発煙したらしい。

僕とアイドルはタクシーに乗った。車窓の向こうで、街が少しずつ後ろへ流れた。彼女はこれからステージに立つ。僕はそれを見に行く。同じ車に乗っているのに、渋谷へ近づくほど二人の役割は分かれていくようだった。

そして屋上。

ライブが始まるころには、雲は消えていた。ガラス張りのビルに日差しとGMOの看板が反射している。風が吹いていた。胃の奥にあった吐き気は、いつの間にかなくなっていた。

キックが鳴る。六人の声が来る。

音楽の欠けた部分に風が入り、オタクたちの肩や頭のあいだを通り抜ける。その隙間から、彼女が僕を見つけた。

手が上がった。

それは僕に向けられていた。疑いようもなく、僕に。

昨夜、暗い映画館でつないでいた手。蕎麦屋で杯を持っていた手。タクシーの座席に置かれていた手。その同じ手が、いまはステージの上で、誰にでも見える光のなかにある。

暗闇は僕らを隠し、簡単に触れさせた。晴れた屋上はすべてを見せ、手を振り返すことさえ難しくした。

恋人として振ればよいのか。

オタクとして振ればよいのか。

僕の手は動かなかった。彼女の手だけが動いていた。二人のあいだには夏の風があり、失われた伴奏があり、昨夜の怖くなかった映画があり、止まった電車と、蕎麦屋で身につけたばかりの作法があった。それらが一度に僕の身体を通り過ぎていった。

彼女はまだ手を振っていた。

僕に向かって。

Cosmic Dance / 2026年7月25日
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