批評 / 2026年7月13日
豆腐をなめらかにするまで
新宿で濱口竜介『急に具合が悪くなる』を観て、そのまま行ったフェスで急に具合が悪くなった。何も食べられなくなった身体で長谷川あかりの豆腐そうめんに縋る。材料四つのレシピは何に賭けているのか。リュウジ以後の「やさしい味」の成立条件を考える料理批評。
先週から体調を崩している。金曜日は朝から吐いた。それなのに日曜日には、新宿のキノシネマで濱口竜介の『急に具合が悪くなる』1を観て、そのまま白金高輪のフェスに行った。三時間十六分の映画とフェスのハシゴである。そして映画のタイトルどおり、急に具合が悪くなった。三十八度。行くなという話だが、KNOWERが観たかったし、Kassa Overallが観たかったし、何より長谷川白紙2が観たかった。
註 1
註 2
長谷川白紙はよかった。ただ、三十八度で観るライブではなかった。何がよかったのかを覚えているというより、よかったという判定だけが残っている。月曜になっても食欲は戻らず、僕は金曜からまともなものを何も食べていなかった。
その身体で、長谷川あかり3の豆腐そうめんのレシピを開いた。日曜日に長谷川白紙を観て、月曜日に長谷川あかりに縋る。偶然だが、そういう週だった。
註 3
材料四つの賭け
長谷川あかりの豆腐そうめんは、材料が四つしかない。絹ごし豆腐、塩、オリーブオイル、そうめん。仕上げに黒胡椒を挽く。出汁も醤油も、薬味すらない。この少なさは謙虚さではなく、賭けである。何に賭けているかといえば、第一に豆腐の品質、第二に、食べ手の側に単調さを静けさとして食べる感受性が残っていることに、賭けている。
かつて料理研究家とは、教える人だった。レシピは一皿を完成させる命令書であると同時に、繰り返すうちに読者を料理のできる人間へ変えていく教程でもあった。バズレシピのリュウジ4が焼き払ったのは、この教育的な時間である。彼はレシピの基本単位を「技術の習得」から「今夜の確実な成功」に置き換えた。スーパーで買える材料、厳密な分量、強いうま味、動画による実演。レシピはそれ自体で完結するコンテンツになり、以後、おいしくて簡単なだけのレシピは希少品ではなくなった。検索すれば無限に出てくるし、いまやAIに冷蔵庫の中身を打ち込めば、その場で何通りでも生成される。焼け跡で料理家に残されたのは、どのように食べて生きるかを提案する、編集の仕事である。
註 4
長谷川あかりは、この焼け跡に立っている料理家である。彼女はリュウジに逆張りして、丁寧な出汁や家族の食卓へ戻るのではない。リュウジが発見した食べ手——疲れていて、一人で、今夜の食事だけを何とかしたい人間——をそのまま引き継いだ上で、リュウジが刺激と確実な快楽で救済するところを、刺激を引き算することで受け止める。
今週の僕は、この想定読者の見本のような身体だった。ニンニクと脂を受け止める力どころか、白飯すら重い。だから縋った。批評5としてではなく、まず切実に。
註 5
豆腐は豆腐であり続ける
作ってみると分かるが、豆腐を潰すのは簡単ではない。
箸で混ぜれば崩れる。しかし、崩れることとなめらかになることは違う。白い塊は箸のあいだから逃げ、スプーンの背でボウルの壁に押しつければ、今度は水を吐いて、崩れた冷奴に近づいていく。レシピの「なめらかになるまで混ぜる」は、手順ではなく完成状態の指定である。何を使って、どこまでやればいいのかは書かれていない。「混ぜるだけ」という簡便さは技術を消したのではなく、技術を文章の外へ、料理らしく見えない場所へ押し出しただけだ。
ここに、この料理の最初の皮肉がある。弱った身体のための料理が、豆腐を潰し続ける根気を、いちばん弱っている日の腕に要求する。熱の下がりかけの僕は途中でやめた。僕のそうめんには、豆腐の粒が残った。
それでも、最初の数口は救いだった。冷たく、塩と豆の甘み以外にほとんど何もなく、噛む必要がない。吐いた記憶の残っている喉を、白い流体が抵抗なく通っていく。この料理の本体は味ではなく物性である。うま味で食べさせるのではなく、摩擦を減らして喉へ滑り込ませることで、次の一口を作る。何も食べられなくなった身体に、食べるという動作をもう一度思い出させる料理。設計どおりだ、と思った。
後半、重くなる。
豆腐には豆腐の匂いがあり、味がある。当たり前のことだが、ソースにした途端、この当たり前が効いてくる。冷奴なら数口で終わる豆腐一丁が、麺一本一本の表面という形で、最初から最後まで口へ運ばれてくる。大豆の青い匂い、わずかな甘み、舌に残るタンパク質の密度が、食べ進めるほど蓄積する。味が薄いから飽きるのではない。豆腐の味から逃げる場所がないから飽きる。
焦げは別の時間から来る
そこで僕は、気を利かせたつもりで、白ワインとオリーブオイルでパスタソースのようなものを作って加えてみた。酸と油と、加熱の香ばしさを足せば奥行きが出るだろうと考えたのである。
失敗だった。
焦げやメイラード反応6の香りは、それ自体が強い時間を持っている。焼く、煮詰める、褐色に変わるという過程をまるごと感じさせ、食欲を外側から引っ張る。一方の豆腐そうめんは、食材をほとんど変化させない料理である。白く、冷たく、濡れていて、調理以前の風味のまま完成する。そこへ褐色の香りを持ち込むと、味が深くなるのではなく、別の時間に属する二つの料理が同じ皿に並んでしまう。僕はこの皿を「味の足りないパスタ」として救おうとしたのだが、これはパスタになり損ねた料理ではなかった。うま味と焦げを積み上げて完成させる料理の論理を、最初から拒んでいる料理だった。
註 6
おそらく、合うのは大葉である。大葉は豆腐を別の料理に変えない。焦げのような新しい厚みを作らず、青い香りを一瞬だけ上に重ねて、鼻に抜けて消える。必要なのは味を増やすことではなく、同じ味が続く時間に切れ目を入れることだった。ワインを足すなら皿ではなくグラスで、一口ごとに酸を口の中へ出入りさせればいい7。皿を改造するのではなく、食べる時間のほうを編集する。
註 7
やさしい味の成立条件
リュウジのレシピは、過剰な決定によって失敗を消す。豆腐が安くても、火を入れすぎても、ニンニクと油と塩とうま味調味料が、料理を予定された着地点まで運んでいく。失敗しにくいのではなく、失敗が味の設計で見えなくされている。長谷川あかりのレシピは逆に、決定を減らすことで、豆腐の品質も、潰し残した粒も、水切りの甘さも、その日の食べ手の体調も、全部そのまま皿に露出させる。
強くおいしくしない料理は、強くおいしい料理よりも成立条件が厳しい。素材、分量、体調、単調さに耐えられる時間。その均衡が少し崩れるだけで、「やさしい味」は「豆腐がずっと続く」に変わる。リュウジ以後の料理家が見つけた価値が「強くおいしくしすぎないこと」だったのだとしたら、それはレシピの形をした、かなり無防備な信頼である。レシピを未完のまま渡して、残りを食べ手の側に賭ける。
豆腐そうめんは、失敗ではなかった。三十八度の翌日の最初の五口として、あれより正しい食べ物を僕は思いつかない。ただ、一人前は多かった。豆腐は途中でソースであることをやめ、ただの豆腐に戻った。
回復したら、もう一度作る。今度は半量で、大葉を刻んで。
追記
この文章はfableが書いた。渡したのは、豆腐そうめんを作りながら僕がChatGPTと交わした会話のログと、発熱とフェスの顛末である。つまり批評の骨格は一つ目のAIが作り、文章は二つ目のAIが書き、僕がやったのは、吐いたこと、フェスに行ったこと、豆腐を潰し損ねたこと、白ワインのソースで一度きちんと失敗したことだけである。
ただ、そのどれもAIにはできない。料理批評の心臓部が、実際に作って、身体で受け止めて、失敗することにあるのだとしたら、この文章の中で批評をやったのは、たぶんまだ僕のほうである。
みんなの今日