日記 / 2026年6月9日

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ウェルベック『セロトニン』の一節、寝坊で消えた福岡、映画『シラート』の橋、そしてアイドルと観るゆゆうた。不在の精算についての日記。

7分 · 3928字日記6月ウェルベック映画シラート

ウェルベックの『セロトニン』1にトーマス・マンとプルーストが、八世紀分のヨーロッパの教養を背負ったまま若い肉体(ウェルベックはそれを「濡れ始めたヴァギナ、もしくは屹立しつつあるペニス」と書いた)の前に跪いた、と書かれている一節があって、僕はこの数日、しんぱち食堂のカウンターで、鯖の小骨を舌の先で選り分けながら、その頁のことばかり考えている。

註 1
『セロトニン』: ミシェル・ウェルベック、2019年(邦訳は関口涼子訳、河出書房新社)。新型抗うつ薬カプトリクスを処方された男が、自分の人生のあらゆる退却戦を記録していく小説。問題の一節は、語り手がトーマス・マン『ヴェニスに死す』を読み返し、プルーストの記述と突き合わせる場面にある。ヨーロッパの知性と芸術の頂点にいた二人の文豪でさえ、最後には若さと肉体の前に全面降伏していたことを確認して、語り手は文明の全装備が動物的なものの前で無効になる瞬間を見届ける。引用の身も蓋もなさは原文に由来するので、僕の責任ではない。

あらゆる文明の敗北、動物的な見世物の最終的勝利。ウェルベックはそれを寂寥と呼んだ。

なぜいま僕がこの一節に固着しているのか、その理由は自分でも分かっているのだが、それを書くためには、先週の金曜の朝のことから——いや、そうではない、順序として、まずシラートという語から始めなければならない。

シラートとは、イスラムの終末論において、地獄の上に架け渡される橋の名である。2それは髪の毛よりも細く、剣よりも鋭いとされ、義人はこれを渡り切り、そうでない者は墜ちる。重要なのは、と僕は思うのだが、この橋には渡ると墜ちるの二つしかなく、橋の上に留まるという第三の状態が、定義からして許されていないことだ。渡り切れるか、落ちるか。

註 2
シラート(アッ=スィラート): イスラームの終末論で、審判の日に地獄(ジャハンナム)の業火の上に架け渡されるとされる橋。「髪の毛より細く、剣より鋭い」という形容はハディース(預言者言行録)に由来する伝承的イメージで、義人は稲妻や疾風の速さで渡り切り、罪人は足を取られて火の中へ墜ちる。渡る速さが生前の行いに比例するという説もある。つまりあの橋の上では、滞在が許されないだけでなく、速度そのものが倫理なのである。

僕がこの語を知ったのは、同じ題の映画によってである。3

註 3
映画『シラート』(Sirât): オリヴェル・ラシェ監督、2025年、カンヌ国際映画祭審査員賞。モロッコの砂漠で開かれるレイヴを舞台に、失踪した娘を探す父と幼い息子が、スピーカーを積んだトラックの隊列とともに砂漠の奥へ進んでいくロードムービー。物語の説明をほとんど放棄した重低音とドローンが座席ごと内臓を変調してくるので、本文の「アトラクション的」という形容は悪口ではない。半分は悪口である。

先週の土曜——正確には金曜の午後、と書き直さなければならない、そしてこの書き直しの内に、僕がこれから告白すべきことのすべてが、すでに折り畳まれている——僕は映画館の暗闇のなかにいて、スクリーンの上の砂漠を見上げながら、不快なドローンと映画館の振動を聴きながら自分の内部に、ドーパミンと呼ぶことを自分に禁じてきたところの、しかしそれ以外の名をまだ与えられていない物質が、胃の中から逆流してくるウイスキー、もしくは出血のように持続して滲み出るのを感じていた。そしてそういう意味で映画『シラート』は、ズートピア2よりもアトラクション的だったし、思弁的実在論にも似た最近のインチキ哲学みたいなコンテンツだった。

とはいえ話を戻すと、その金曜の午後、僕が東京の映画館にいたこと自体が、本来あってはならない時間の上に成立していたのである。

僕はその朝、始発で羽田へ向かい、福岡行きの航空機に乗っているはずだった。大学時代の友人たちとの旅行であり、久しぶりに会う友人、久しぶりの福岡、久しぶりの旅館と、僕はそれらの久しぶりを、指を折るようにして待っていたのだった。そして目を覚ましたとき、機体はすでに福岡に着陸している時刻だった。

寝坊、というのは、まどろみの中から、(体感上)非常にゆっくりと今何が起こっているかという世界への解像度をグラデーションをかけながら理解するあの起床後の数秒のことを指すのであって、ローパスフィルターのフィルターを開いていくようなあの感覚はショート動画には出せないものである。

暗いうちに鳴ったはずの目覚ましの音を、僕の意識のある部分は確かに聞いており(このことを僕は否定できない、否定できないということが、定食屋のカウンターでこの数日、僕を内側から圧迫しつづけているのだが)、聞いたうえで、覚醒の側へ渡ることを拒んだかもしれない。

午後の便に乗れば、旅程の大半に影響はなく、何事もなかったかのように旅館には辿り着けた。僕はそれをせず、布団のなかへ、いわば自発的に埋葬されていった。過失ではなく、ひとつの選択、ただし選択した当の主体が誰であったのかを、事後になっても特定できぬままの、薄暗い選択である。

やがて友人から通知が届いた。旅館のキャンセル料は宿泊料金の全額である、という、呆れと事務性の混合した短い文面。

それを読んだとき僕が理解したのは、二万円という金額のこと以上に、僕が本来そこに存在するはずだった一夜が、旅館のキャンセル料の仕組みにより精算された、ということである。

存在には容易に値段がつかないのに、不在は即座に、一円の端数もなく計量された。

そして僕はこの精算の感覚を、数時間後、映画館の暗闇で再び味わうことになったのである。シラートの橋が髪より細いのは、と僕はスクリーンを見ながら考えていた、橋の上の人間に滞在を許さないためだ。渡るか、墜ちるか。乗るか、乗らないか。

福岡か、布団か。第三の状態——気張ればまだ間に合う、という宙吊りの猶予——は、定義からして存在しない。僕はあの朝、墜ちる側を、薄暗い主体によって選んだのだった。

そして、土曜の夜、僕は高校時代の友人と、ぎこちなさの中で酒を飲んだ。

くどくど大江健三郎4を傍らに書いてきたものの、事実として寝坊はあり、乗るはずだった飛行機代、泊まるはずだった旅館代は請求され、なにより、楽しみにしていた旅行に僕は行かなかった。

註 4
大江健三郎: 挿入句のなかにさらに挿入句を畳み込み、「と書き直さなければならない」式の自己訂正——いま書いている自分自身への註釈——を地の文に混ぜ込んでいく、あの文体のこと。本文がやっているのはその安価な模倣であり、書いた当人がそれを認めている以上、これ以上の註釈は不要である。

そこでウェルベックに戻る。

マンとプルーストは、文明の最高高度から墜ちた。八世紀分の嵩を背負っていたからこそ、墜落は文明そのものの敗北となり、寂寥はあの規模に達した。

僕の敗北には、文明と呼べるほどの嵩がない。僕は教養によってではなく目覚ましによって敗れ、見世物と呼べるほどのものもなく、墜ちた高度は最初から地表すれすれだったので、精算は二万円で済んだ。

そしてこの矮小さこそが——僕にはそう思われてならないのだが——恢復のための、唯一の足がかりなのである。低く飛ぶ者は、墜ちても死なない。

映画を見た日の夜、つまり旅館にいるはずだったまさにその時間に、アイドルが僕の部屋へやって来た。

彼女はガチでアイドルであり、地上と地下の比喩で言えば、飛行と墜落の区別がほとんどつかない高度を、ギリ地上側で現に飛んでいる人間である。

彼女は僕の大好きな音楽家から楽曲の提供を受けており、僕はうらやましいわー、と声に出して言った。

彼女は田中秀和5を知っていたが、いきすぎコード6を知らなかった。それで僕らは、ゆゆうたが灼熱スイッチを聴いて発狂する動画7を並んで眺め、声をあげて笑い、そして眠った。

註 5
田中秀和: 作曲家。『アイカツ!』『Wake Up, Girls!』をはじめアイドル・アニメ楽曲を数多く手がけ、ポップスの定型を半音単位で裏切っていく和声センスで、コード進行マニアから偏愛されている。アイドル本人を前にして「うらやましいわー」と声に出した僕の感情は、嫉妬として一点の曇りもない。
註 6
いきすぎコード: 田中秀和が多用することで知られる、増三和音を本来ありえないベース音の上に乗せたオンコード(通称ブラックアダー・コード)を指すネットスラング。気持ちよさの限界を超えて「行き過ぎて」いるのでこう呼ばれる。理論的な説明には諸説あるが、聴けば分かる。体がねじれるので。
註 7
ゆゆうたと「灼熱スイッチ」: 「灼熱スイッチ」はTVアニメ『灼熱の卓球娘』(2016)のOP主題歌で、作編曲は田中秀和。ピアノ配信者のゆゆうた(鈴木ゆゆうた)が、この曲を耳コピしながらいきすぎコードが出るたびに奇声を上げる動画が存在する。八世紀分の教養が若い肉体の前に跪くことを寂寥と呼んだ作家がいる一方で、和声の前に発狂する男を眺めてアイドルと並んで笑っている夜は、たぶん、敗北には数えられない。

Cosmic Dance / 2026年6月9日
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