人は人生や、自分の書いているもの、撮っている映画にのめり込んでいるまさにそのただなかで、何者かのアイデンティティの性質について問いただしたくなる。
だがそれは「しくじり」に終わらざるをえない。なぜなら分類作業に向かってしまうからです。問題はまさに、様々な思考の間を結ぶような何者か創造すること、それに名前を与えることが不可能であるようにして何者かを創造することなのであり、ゆえに、それが何であるかを決して明らかにしないような色調、形態、強度をそれに与えるべく毎瞬努力しなければならないのです。
生きるすべとはそうしたものです。生きる術、それは心理学を殺し、自分自身および他の人間たちとともに個体性、存在、関係性を作り出し、名前のない特性を作り出すことなのです。
人生でそれを作り出せないなら、人生は生きるに値しない。
この辺のフーコーすげ〜いいなだよね、、、1
註 1
ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の後期思想、とりわけ『性の歴史』第2巻「快楽の活用」および第3巻「自己への配慮」において展開された「生存の美学(esthétique de l'existence)」に関する言及である。フーコーは、近代的な主体形成が「自己の真実」を告白し、科学的・道徳的規範によって管理・分類される「規律権力」や「生権力」のメカニズムに絡め取られていることを批判的に分析した。これに対し、彼が古代ギリシア・ローマの倫理的実践に見出したのは、自己を「解読されるべきテクスト」としてではなく、「創造されるべき作品」として扱う態度である。ここでの「美学」とは、単なる芸術的装飾ではなく、自己自身を統治し、変容させ、新たな主体のあり方を構築するための「自己の技法(technologies of the self)」を指す。引用部にある「心理学を殺し」という表現は、内面的な深層心理に自己の根拠を求める近代的なアプローチを拒絶し、外部との関係性の中で動的に自己を再発明し続けることの重要性を示唆している。
2025-11-25-05-30
3連休明けの月曜日、5時に起きた。
昨日の日記を読み直していたら、もうすでに今年の4月までの日記はいくつか書いてあった。
昨日の振り返り、殆どがすでに書かれたものの焼き直しだった。
すみません。。。
ゆっくり5月からは振り返ります!
土曜日に学大であった女の子と飲んだ。
4軒はしごした。
もうへべれけでなにがなんだかわからなくなるまで飲んだ。
次の日、夕方から手が震えてきた。
アルコールの離脱症状で手が震えていたっぽい。不快だった。
なので酒を控えることにした。2
断酒して丸2日、まだいけるゾ。
註 2
アルコール離脱症候群(Alcohol Withdrawal Syndrome)。常習的なアルコール摂取の中断または減量によって引き起こされる一連の症状。中枢神経系の過興奮状態に起因し、自律神経症状(発汗、頻脈)、振戦(手の震え)、不眠、不安、さらには幻覚や痙攣発作を伴う場合がある。筆者の記述する「手の震え」は、血中アルコール濃度の低下に伴う自律神経の反跳現象としての振戦(tremor)であると推測され、身体的依存の形成を示唆する臨床的な徴候である。
昨日は妹と夜ご飯を家で食べた。
「じゃあおまえが作ってみろよ」を3話まで一緒に見た。3
註 3
『じゃあおまえが作ってみろよ』(谷口菜津子作)。同名の漫画を原作とするテレビドラマ。料理へのダメ出しを繰り返すモラハラ彼氏に対し、主人公が「じゃあおまえが作ってみろよ」と言い放つことから物語が展開する。単なる「料理ドラマ」の枠を超え、食卓という日常的な空間におけるジェンダー・ロールの不均衡、ケア労働の不可視化、そして他者支配の構造を鋭く告発する作品として読解可能である。(が、あまりにも女性が描けていないと筆者は感じている)
概要。主人公の竹内涼真は、九州男児、亭主関白、モラハラ、ジェンダースティグマ……そういった「有害な男らしさ」を全て内面化したような男。
対する恋人の夏帆は、そんな男と付き合い、飯を作って待っているだけの女。
第1話で彼女はモラハラに耐えきれず別れるのだが、僕は見れば見るほど、夏帆に腹が立って仕方がない。
なんでか分からんけど強かに迎合してやってる、みたいなのは好きではない。
今後一度も人生で関わりたくないタイプの地雷。
ドラマは面白い。ただただ腹が立つから、続き見るか分からないけど
あとドゥルーズの絵画論をチマチマ読んでいる。
が、未だに彼が何と格闘しているかわからず、彼が立てている問をわからないまま読み進めている。4
註 4
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995)がフランシス・ベーコン論『感覚の論理』において提示した「ダイヤグラム(diagramme)」の概念に関する記述。ドゥルーズによれば、画家が白いキャンバスに向かうとき、そこは決して「白紙」ではない。そこには既に、過去の絵画史、クリシェ(陳腐な常套句)、あるいは画家自身の習慣的な視覚といった「確率的なデータ」が充満している。創造行為とは、この既存の秩序を破壊し、新たな「形象(Figure)」を出現させるための闘争である。ダイヤグラムとは、この闘争の過程で導入される「操作可能なカオス」であり、意図的な筆の誤り、拭き取り、あるいは非意味的な線描などを指す。それは、具象的な再現(リプレゼンテーション)と抽象的な形式の双方を回避し、神経系に直接作用する「感覚(sensation)」をキャンバス上に定着させるための、生成変化の装置として機能する。筆者が「何と格闘しているかわからず」と述べるのは、まさにこの「見えないクリシェ」との闘争という、絵画制作における前言語的・身体的な次元に触れているためであろう。
ダイヤグラムという謎の概念がでてきて、カオスとかからどうやって何が生まれるか、そして、白紙から一枚の絵を作り出すときに何が起こっているのか、を論じているみたいだけれど
到底そんな凡庸なことと戦っているような気もせず(きっとそこは本質ではない予感がする)。
もうチョット読み進めてみる。
さて、5時45分。今日は筋トレして仕事行くぞ〜