日記 / 2025年3月30日
2025年3月30の日記
今日は日曜日。
どうやら前の彼女に恋人ができたとのこと。
(今日はずっとライ・クーダーを聞いていた。)歩いて下北まで行ってTinder活動をしてきた!!!
ライ・クーダー。彼のスライド・ギターが奏でるアメリカ的音響。それは、依然として、あの、粘着質でありながら、奇妙に、ドライな、音響テクスチャーに、我々の、聴覚=記憶を、呪縛する。 ブルースの神話性を単に、反復するのではない。クーダーの指先は、アメリカという、矛盾に満ちた、文化=政治=経済複合体の、亀裂、断層、スクリームが、堆積する、地層を、執拗に、なぞり、えぐり出す、鋭利な、聴診器=メス、であった、はずだ。
トランプ/マスク/ヴァンス的地平―― 現在、クーダーの音楽は、かつての洗練されたノスタルジアとしての役割を果たすことができるのか。J・D・ヴァンスが描いたヒルビリーという文化・階級的アイデンティティの屈折したルサンチマンや、イーロン・マスクが体現するテクノリバタリアン的な加速主義が織りなす荒野において、クーダーのアナログで身体的な手仕事は、もはや時代遅れの遺物としてしか存在し得ないような気もする。
ここで、あえて個人的でありながらも非常に普遍的なエピソードを挿入することをお許しいただきたい。ついひと月ほど前の出来事である。恋人と別れた。 理由は、少し繊細な問題で、いわゆる精神の不安定さを過剰に演じるタイプの人との共存が、私の精神衛生上の限界に達したという、非常に現実的なもの。 別れを切り出した時、彼女は泣いた。それはもう、この世の終わりのような泣き方だった。 「あなた以上の存在なんて現れるはずがない」「私なんて、もう誰にも愛されない」 なんかいろいろ言われた。 しかし、こちらの感情は既に冷めきっており、その過剰な感情表出は、どこか芝居がかったスペクタクルとしてしか映らなかった、というのが正直な告白である。(とはいえさよならの瞬間は泣けたけど)
それからわずかひと月。彼女には既に新しい相手が見つかったらしい。
「このフェイク野郎が」ーーそれくらいの悪態はついていいよね。 季節が変わるみたいに、拍子抜けしてしまった。
こうやって日記に感情をスペクタクル化している。 個人的な経験をスペクタクル化するしかないはずの日記だが、例外状態の社会もスペクタクル化されて見える時がある。
トランプ的な分裂と憎悪のポリティクス、マスク的なテクノロジーによる脱・歴史/脱・身体化の圧力は、個人の内面すらも、消費され、高速で回転するスペクタクルの回路へと組み込んでいく。かつての恋人の涙も、その後の素早い「乗り換え」も、まるでSNSのタイムラインを流れる一過性のコンテンツのように、軽薄で、代替可能に見えてしまう。そこには、クーダーがギターで掘り起こそうとした、歴史や身体性に根差した「重さ」のようなものが、決定的に欠落している。
クーダーの音楽が持つ、あの奇妙なドライさは、こうした感情のインフレーションに対する、一種の解毒剤みたいに聞こえてくる。 それは、過剰な湿り気を帯びた感傷を蒸発させ、剥き出しになった現実の地層と骨格を露わにする。フェイクが蔓延る時代において、彼のスライド・ギターは、安易な共感や同情を突き放し、むしろ、個々人が抱える孤独や断絶のリアリティを、静かに、しかし鋭く、突きつけてくるかのようだ。だからこそ、今、彼の音楽を聴くことは、ある種の痛みを伴う。しかし、その痛みこそが、失われつつある「本物」への、か細い接続線なのかもしれない。
gemini 2.5すごい・・・
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