日記 / 2025年2月1日
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2025年の始まり、AIと量子の時代における25歳の思索
砂時計の粒のように零れ落ちた歳月たちは、今やデジタル海溝の底で眠っている。1999年の産声はY2K問題の予感に震え、2010年代の青春はSNSの断層に飲み込まれた。四半世紀分の記憶の断片が、脳内でジャック・デリダの脱構築を繰り返す。
世界はAIと量子コンピュータで光速化するのに、この肉体は未だ20世紀的な新陳代謝を続けている。ドゥルーズが囁く「器官なき身体」への変容は、なぜ私の皮膚の上でだけ渋滞しているのか。25年目の朝、鏡の中の自分が東浩紀の動物化するポストモダンを実演していた。
今日はDifyからスプシに連携してもらうのを無限にやっていた。 LLMが裏っ側で20分くらい動き続けている。 (そしてまたAPI料金を取られていく。)
城崎温泉に行ったり、三体を呼んだりしていた。
三体を読んで
三体を読んだ。壮大なコズミック・スケールに立たされると、つい「人間の営みがどこまで意味を持つのか」という問いに行き着いてしまう。宇宙の闇と、そこに浮かぶ地球や人間社会を見つめると、Tim Mortonが『Hyperobjects』や『Dark Ecology』で論じたような「人間を超えた存在との絡み合い」が、まさに三体のダークフォレスト理論や地球文明の曲折とシンクロして見えてくる。
Mortonがしばしば言及する"strange stranger"──異質でありながらも我々の生と混じり合ってしまう他者性──は、トリソラリス人と地球人との関係を比喩的に言い表すのにぴったりだ。あちらもこちらも、お互いが互いを"深淵"として見つめ合いつつ、どうにかして合理や技術、そして偶発的な"運命"を活用して道を拓こうとする。
しかし、そもそも人間中心主義から一歩離れた視点を持てないなら、この"他者"との共存は成立しない。Mortonが言うように、エコロジーとは遠い自然を語るものではなく、すでに我々の内的空間と外部との織りなす"メッシュ"なのである。
資本主義的リアリズムの極点
一方、マーク・フィッシャーが『Capitalist Realism』や『Ghosts of My Life』で指摘したのは、資本主義的リアリズムのもとでは「代替不可能な現実」の幻想に閉じ込められるということだ...
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「失われた未来(lost futures)」は、そのまま三体の物語中で幾度も無に帰していく「地球の生存可能性」と重なるのではないか。
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ポップカルチャーのエコロジー
だが、フィッシャーが好んで引用していたポップミュージックも、こうした閉塞の只中で"一瞬の裂け目"を示す装置になりうると...
参考文献
- Tim Morton, Hyperobjects: Philosophy and Ecology after the End of the World, University of Minnesota Press, 2013.
- Mark Fisher, Capitalist Realism: Is There No Alternative?, Zero Books, 2009.
みんなの今日