日記 / 2023年6月12日
6/12
うーーーーん
エロいとは別の方向ですごい良かったんだけど、うまく説明できるかな。
まず勃起したかどうか問題。1秒たりとも勃起しなかった。 一応前回の日記から続いている。
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ばたいゆ〜。
「エロい」とはなんなのだろうか。バタイユは『エロティシズム』で
エロティシズムの領域は本質的に暴力の領域であって、エロティックな快楽は、まさに禁制侵犯の関数なのである。まずタブーがあり、次にそれを犯すという意識がなければ人間のエロティシズムは成立しない。
らしい。
あっけらかんと脱ぐ踊り子。そこには「裸」への禁止はない。たとえば、セックスの後に見る(自分も含めた)裸のように。ただそこにあるものとしての「裸」。
バタイユ理論でいくなら、ストリップは、まぁ何もエロくないことになる。
女の裸が必ずエロいわけがないのだ。家族の裸だってそうだったじゃないか。
今読んでる上野千鶴子の対談本に「どぶに捨てるようなセックス」という表現がある。
これをぼんやりぼくなりの言葉で言い換えると、個別の身体を必要としないセックスのことだと思う。あるいは観念的なセックスと言い換えてもいいかもしれない。
それは前回の日記にも書いたけど、意味づけや記号によって(個別の)身体を破壊することだ。
バタイユがいうエロティシズムも個別の身体を必要としていない。
一方で個別の身体はかなり生々しくて重々しい。ストリップの身体は生々しくて重々しい、"存在の耐えられない重さ"がある。胸の大きさとか、女性きに毛が生えているか、とかそういう言説の部分を重々しく飛び越えていく。
それは事後に全裸でいる時のみすぼらしさみたいなものだ。
身体が身体そのものとして表象されること。その軽すぎる重さなんだよ!!!
クリトリスと思考
カトリーヌ・マラブー。 『クリトリスと思考』で「クリトリスはアナーキストである。」と意味のわからないことを言う。
生殖器官としての意味を持たないクリトリスの歴史を描きながら、生殖あるいはヴァギナという制度から離れようとする。それはペニスを必要としない快楽だし、ね。
『ジェンダー・トラブル』のバトラーは身体的な性における本質性を徹底して批判する。その動機は身体という意味でのセックスが言説によって構築されていることを明らかにするものだ。陸上競技で男性ホルモンが多い選手が女性競技に出場できない問題とかは、男女の身体的な区分が「男性ホルモンが基準値より多いかどうか」で決定される。 バトラーの有名な「セックスは常にすでにジェンダーである。」 はそういうことだ。
だから「女性的なるもの」から始めるフェミニズムを批判する。 (ぼくはフェミニズムを政治哲学として読むけど、バトラーのそれは"否定神学的連帯批判"と似ていると思う。)
陰唇
でもイリガライもまた、女性的なものから始める。陰唇の女性性。
男性はみずからに触れるために手や女性器や言語などの道具を必要とする。そして、その 自己触発は最小限の活動を要求する。それに対して女性は媒介を必要とせず、まさに能動 と受動が区別されうる以前に、自身においてみずからと触れあう。(中略)というのも、女性器はたえずくちづけしあうふたつの口唇でできているからである。
陰唇が互いに常に触れ合っている、女性の完結性みたいなものだ。
そしてぼくはそれをまじまじとみた。M字に開脚した足から覗く女性器、四つん這いになって後背して覗く女性器、うーん、うーん。そうじゃない。
うーん。
マラブーは『偶発事の存在論』破壊的可塑性という概念を提示する。
破壊的可塑性は、他者がまったく存在しないところに、他性の出現または形成を可能にする。可塑性は、他性の形であるが、そこには一切の超越も、逃走も、逃避も欠けている。
ごめんここまで書いてやっぱり違う気がしてきたよ〜〜〜 イリガライの話から変になってきた。
あと本当は土曜日は活動弁士を見に行ったのだけど、その話はあんま書くことないしもう何もわからない。
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みんなの今日