日記 / 2026年1月26日

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恋人の愚痴から、ドゥルーズの他者論と絵画論(モジュレーション)へ。

12分 · 8440字日記1月ドゥルーズ

年末から鼻炎が治らない。

朝起きると、茶色い鼻水が目の裏の鼻腔からドロドロと出てくる。

いつまで経っても治らないので、ついに鼻うがいを買った。やってみたら、かなり快適だった。鼻うがいこそが最高のソリューションである。人類は恋愛アプリやAIより先に、鼻うがいを標準装備するべきだった。

たぶん年末に体調を崩したのも関係している。あと、部屋の換気をもう2ヶ月くらいしていない。やばい菌がやばいまま部屋にたくさんいるんだと思われるが、換気はしない。寒すぎるので。

というわけで恋人ができた

全世界に公開されている場でこんなことを書くのは躊躇われる気もするが、躊躇して書いた文章はだいたい面白くない。つまり、付き合って1ヶ月の恋人の愚痴である。

1番の問題は、面白くないことだ。

「どのコンビニが一番好きか?」

何度も擦られながらもそれなりに盛り上がり甲斐のある話題だと思う。で、1分ほど考えた後に「ファミマ。Tポイントが貯まるから」と返される。クソみたいな回答である。

もちろん正しい。もはやリユースショップになってしまったCCCが始めたポイント制度に、何も期待してはいけない。

彼女がTポイントを宗教として実践していて、わざわざファミマへ通い、桁が狂ったポイントを貯めているなら面白いのだが……別にそんなことはない。彼女はただ"お得"感だけで気持ちよくなって、ファミマが好きになっているみたいで。そういう情けなさを省みることもなく無邪気にTポイントが溜まるからファミマが好きと言われても、底なしの純粋無垢すぎて、もはや怖い……

そして趣味もない。

百歩譲って面白くないのはいい。趣味もないのもいい。が、ただの愚痴。

  • ご飯奢った後に一切ありがとうなど言わない。「あざーすw」とかでいいのに。
  • ある日過ごしていて、翌日がわたしの誕生日だと知ったので特段お祝いしてほしいとかはまったくないのだが、「おめでとう」の一言しかなかったり

なんだかもうよくわからん……

みたいな話を先輩に話していたら結局『花束みたいな恋をした』問題に行き着いた。1

💐 花束問題とは:

この映画に対する感想と批評と自分語りをぜんぶ丸めたあらゆる言説の総称。

先輩曰く、「共通言語がない中でどうやって関係を立ち上げるかでしょう!ドゥルーズだったらそういうこと言うよ。」

……というわけで、ドゥルーズの他者論を検討してみることにした。

國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』にそれっぽい箇所があったので読み直した。文庫版を買って放置していたので、ちょうどよかった。

ドゥルーズの他者論

哲学史的には、ヒュームを乗り越えたカント、というダイナミズムがある。カントが超越論として提示した「物自体を知覚することはできない」というテーゼのなかで、ドゥルーズはヒュームの側に「超越論的経験論」を見ようとする。2

カントが「知覚の条件」を問うとしたら、ドゥルーズは「その条件が成立してしまう現場」を問う、という理解でいいはずだ(たぶん)。

そこで國分はドゥルーズの「無人島」に言及する。3 ドゥルーズの知覚を成立させているのは、他者である。ここで言う他者は「近くに人がいる」ではない。世界が共有される、という可能性そのものだ。

無人島と有人島と非-無人島は別物で、ドゥルーズにとっての他者は,人がいることではなく、知覚を共有できる他者がいることである。

そしてそれが超越論的経験論になる。

ということ。

そして國分功一郎はさらに、「類似的他者」という概念をちらっと考える。4 ドゥルーズの他者は「知覚の共有」を条件にするけど、それって結局「だいたい似た感じに見えている」という仮定に寄りかかってない? という疑いである。

で、私に戻すと——

いま起きている「恋人が面白くない問題」は、性格診断として読んでも何も生まれない。たぶんこれは、プロトコルの問題である。

チャンネルが違う

  • 私は比喩で会話をしたい。
  • 彼女は最適化で会話をしたい。
  • どちらも正しい。正しいが、チャンネルが違う。

私は「どのコンビニが好き?」と聞く時、脳内ではすでにバカな会話の地図が広がっている。 ミニストップ、ソフトクリーム、秩序、欲望、朝からなにも食べていなくてお腹が空いているのでセブンイレブンに来たはいいが、なにも欲しいものがないときの絶望。

そういう、どうでもいい脱線で関係を立ち上げようとしている。

でも彼女は「ファミマ。Tポイントが貯まるから」と返してくる。

そして「ありがとう」とか「おめでとう」も同じで、あれは道徳の話というより、最低限のハンドシェイクである。

で、ここから花束問題になる。 『花束みたいな恋をした』は、共通言語がありすぎる二人の話だ。1

類似から、アナロジーへ(絵画の話に急に飛ぶ)

ここでようやく、私が本当にやりたかった話をする。ドゥルーズの絵画論である。フランシス・ベーコンのやつ。5

「類似的他者」という言い方は、どうしても「似ていること」が前提に見える。先に"似ている"があって、それを共有できるから他者が成立する、みたいな感じ。

これが恋愛だと、地獄の言い方に翻訳される。

「趣味が合う人と付き合うべき」 「笑いのツボが同じ人と付き合うべき」

まぁそうなんだけど、そんなに都合よく"同じ人"は落ちていない。落ちていたら、とっくに拾っている。

で、ドゥルーズの絵画論の面白いところは、そこをひっくり返す。

キャンバスは最初から白紙じゃない。

絵画史とか、広告とか、SNSとか、あなたの手癖とか、そういうクリシェ(常套句)がベタベタに貼られている。5

画家はまずそれと戦う。戦うために、わざと線を間違えたり、拭き取ったり、ぐちゃっと汚したりする。

これがドゥルーズの言う「ダイヤグラム」らしい。5 秩序を壊すための"操作可能なカオス"である。

ここがポイントで、ダイヤグラムから先に起きるのは、「似せる」ではない。 むしろ「似てない手段で、似て見えるものが出てくる」。

ドゥルーズはこれをアナロジー(類比)と呼び、さらにそのアナロジーをモジュレーションとして捉える。67

モジュレーションって言うと急に理系っぽいが、要するに変調だ。

同じ信号でも、媒体のつまみを回すと結果が変わる。 "似ている"は、複製じゃなくて、変調の結果として出てくる。

類似的他者を、結果として作る

ここまでくると、恋人の愚痴に戻れる。

私が彼女に求めていたのは、たぶん**「先に類似していてくれ」という要請**だった。 面白い会話ができること。趣味があること。ありがとうを言うこと。

これは、恋人に対して採用面接みたいなことをしている。採用面接をした瞬間に、だいたい恋愛は死ぬのだが、現代では皆、平気でそれをやる。

ドゥルーズの絵画論的に言うなら——

関係っていうのは最初から"似ている二人"が発見されるわけじゃなくて、

  1. まずキャンバス(関係)があり
  2. そこにはテンプレ(クリシェ)があり
  3. そこに何かしらのダイヤグラム(ノイズ、ズレ、試行錯誤)が入って
  4. その結果として「この二人、なんか似てるよね」という"類似"が生成される

類似的他者は「前提」じゃなくて「成果」なのでは、という話だ。

恋人が面白くないとか、ありがとうを言わないとか、その局面だけを見ると人格審査になってしまうが、もうちょい引きの画で見ると、関係のモジュレーションがまだ起きてない、とも言える。

(起きるのかは分からない。)

花束問題を、モジュレーションで読む

⚠️ 以下、『花束みたいな恋をした』のネタバレを含む。

『花束みたいな恋をした』の冒頭で、有線イヤホンのLとRの話が出てくる。8

同じケーブルを共有しているのに、左右で流れている曲が違う、という比喩だ。二人で「同じものを聴いてる」つもりでも、実は違う音を聴いてる。

この映画がずっとやるのは、それである。

麦と絹は、出会いの時点で「趣味が合う人」の完成形みたいな二人だ。1 固有名詞の投げ合いだけで回線が張れる。それは強い。恋愛の初期には特に強い。

で、地獄はここから。

社会人になって、働いて、生活が回りはじめると、花束は枯れていく。 枯れるというより、花束であることがバレる。

しかも、枯らしたのがどっちか分からない。悪者がいない。

仕事で疲れてパズドラするのも分かるし、ライブに行きたいのも分かる。1 同じ「好き」を共有していたはずの二人が、時間の中で別の音を聴き始める。8

それでも有線は絡まる。絡まるな。

ここでドゥルーズの絵画論に戻すと、花束問題の核心は**「類似を前提だと思いすぎること」**だと思う。

麦と絹は最初から類似的すぎたから、その類似を土台にしてしまった。 でも絵画では、類似は"写す"ことではなく、変調の結果として出てくる。67

恋愛も同じで、類似は最初からあるものじゃなくて、毎日のモジュレーションで更新される(はずの)ものだ。

映画が怖いのは、外側のモジュレーションが強すぎるところだ。 仕事、生活、将来、金、疲労。こっちは勝手に変調される。

それに対して二人の間のモジュレーター(ダイヤグラム)を作れないと、似ていたはずの世界がズレていく。57

最後に残るのは、ファミレスで聞いた他人の会話とか、ストリートビューに写った過去とか、その手の残像である。1

時間の勝ちである。

で、私の愚痴に戻すと——

私は「共通言語がない」側で困っているけど、花束問題は「共通言語がありすぎる」側の破局を見せてくる。

どっちも地獄。

共通言語がないと立ち上がらないし、
共通言語だけだと枯れる。

じゃあどうするの、という話になる。

超しょうもない結論は、回線を張るコード(デジタル)と、回線を生かす変調(アナロジー)を両方やるしかない、である。67

具体的には、超しょうもない提案だが、

  • 「ありがとう」を言う/言われるを、性格じゃなくプロトコルとして擦り合わせる
  • 共通言語がなくても作れる共同体験を仕込む(同じ映画を見る、同じ散歩コースを作る)
  • 会話を、最適化だけ/比喩だけに寄せず、両方のチャンネルを作る(変調器を増やす)
  • それでもズレるなら、ズレる(花束は枯れることもある)

鼻うがいと同じである。最初は気持ち悪いが、やってみると案外、回線が開通する。

恋愛の方は、まあ、分からない。

註 1
『花束みたいな恋をした』(2021)。明大前で終電を逃した山音麦と八谷絹が出会い、カルチャーの固有名詞を共有することで恋が立ち上がり、社会人化とともにゆっくり別れていく話。派手な事件が起きないのに胃が痛い。ファミレスで他人の会話を聞くシーンや、ストリートビューに写りこんだ過去など、「時間が全部をズラす」感じが容赦ない。
註 2
超越論的経験論: カントの「超越論(transcendental)」は、経験に先立つ"条件"を問う(空間・時間・カテゴリーなど)。ドゥルーズがヒューム経由で考える「超越論的経験論」は、その条件をさらに"経験の側"に引き戻し、条件そのものがどのように生成するかを問う立場、と理解している。要するに「人間の頭の中に最初から入っているルール」ではなく、「ルールが成立する現場」を見るやつ。私はここをちゃんと説明できないので、なんとなく言葉だけでやっている。
註 3
無人島: ドゥルーズのテキスト「無人島(L'île déserte)」の話。ここで面白いのは、無人島="誰もいない場所"ではなく、むしろ「人がいる/いない」という区別を前提にしてしまう思考そのものをずらすところである。國分が拾っているポイントは、知覚が成立するのは"他者がいるから"であり、その他者は単なる人口ではなく、知覚の共有=世界の公共性を保証する条件として機能する、ということ。
註 4
類似的他者: 國分功一郎がドゥルーズの他者論を読む中でちらっと立てる論点。ドゥルーズの他者は「知覚の共有可能性」を条件にしているように見えるが、その共有可能性って結局「だいたい似た感じに見えている」という仮定に寄りかかってない? という疑いである。私はこの疑いが、恋愛の地獄("合う/合わない"の暴力)に直結するので、ここを足場にしたい。
註 5
『感覚の論理』とダイヤグラム: ドゥルーズ『フランシス・ベーコン 感覚の論理』の有名な話。キャンバスは白紙ではなく、最初からクリシェで充満している。画家はそれを壊すために、意図的な"誤り"や"汚れ"を導入する。それがダイヤグラムで、再現でも抽象でもないところから「フィギュール(Figure)」を出すための装置、という説明になる。私はこの「クリシェと戦う」の部分が、恋愛のテンプレと戦う話としてそのまま使える気がしている。
註 6
アナロジー/デジタル: ドゥルーズは絵画について、アナロジー(analogique)とデジタル(digital)を対比させる。デジタルはコード・慣習・記号の切り分け(いわゆる「こういう時はこう」)。アナロジーはそのコードを飛び越えて、直接"感覚"に届くような連続的な変化(変調)として働く。ここでの「アナロジー」は「似ている」ではなく、「似ていない手段で、似て見えるもの(あるいはそれ以上の感覚)を作る」方に寄っていく。
註 7
モジュレーション: ざっくり言うと「型取り(mold)」と対比される概念で、固定の型に流し込むのではなく、連続的に変形させながら成形すること。ドゥルーズはシモンドンの用語も引きつつ、モジュレーションを"変調"として語る(同じ信号でも、媒体に対するかけ方で結果が変わる)。絵画で言えば、モデルに似せて複製するのではなく、線・色・リズムの変調によって、結果として「それっぽさ」や「感覚」を出す。恋愛で言えば、正解の儀礼をコピペするのではなく、二人の間で"効く"周波数を探していく、という感じになる。
註 8
有線イヤホンのL/R: 映画冒頭の会話に出てくる比喩。二人で同じケーブルを共有しても、左右で別の曲が流れているかもしれない。つまり「共通言語がある」=「同じものを聴いている」ではない、という一撃である。

Cosmic Dance / 2026年1月26日
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