日記 / 2024年1月4日
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クォンタムファミリーず
カントは『実践理性批判』で、「君の意思の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」と言った。これはひらたく言えば、自分の意思と普遍的立法の原理を一致させるようにたえまなく自己チェック機能を働かせよという、面倒きわまりない倫理プロトコルだ。19世紀のロマン主義やと20世紀の実存主義者は、みなこぞってこの提案に反発した。キルケゴールにしろニーチェにしろハイデガーにしろ、彼らの主張は、おれたちはひとりだ、単独者だ、普遍的立法なんて知ったことか、というひとことに要約できる。ドストエフスキーは『地下室の手記』でつぎのように記した。「2掛ける2は、ぼくの意思なんかなくたって、やはり4だ、。自分の意思がそんなものであってたまるものか!」
カントの評判は、このように文学者のあいだでは散々だった。しかも、それでは彼の提案は単純に忘れ去られるべきものだったのか。
それから2世紀の思想は、結局のところ、カントを信じるべきか信じないべきか、その対立だけを軸に動いていると言ってよい。現在起きている帝国的主権とテトリスとの争いも、ある意味ではその対立の変奏のひとつだ。なぜならば、冷戦崩壊以降のグローバル新自由主義社会は、フクヤマが指摘したように、まさにヘーゲル的弁証法の完成形態だと言えるからだ。自制的な市場は、カント的=ヘーゲル的普遍性の実現そのものだ。テロはその弁証法にこそ抵抗している。帝国とテロの闘いは、なによりもまず思想的問題なのだ。市場は全世界に、近代的主体/自己責任/倫理的ガバナンスという名の普遍的立法を押し付ける。テロリストはそれを拒否する。
この点で、『地下室の手記』の主人奥と現在のテロリストは直結している。
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地下室人の生とテロリストの結びつきは、多くの人が体感している。永遠に続く日雇い労働、廃墟と化したショッピングモール、毎年のように制度が変わる社会保障、そして、そんな時代の苦しみを横目に国外脱出を図る高齢富裕層ーその荒れ果てた光景のなかで、いちどでも暴力の誘惑に駆られたことのない人間がいるとすれば、それは夢も理想も最初から持たない人間だ。
しかし、にもかかわらず、ぼくは地下室人のテロを肯定しない。ラスコーリニコフやスタブローギンの側に立たない。かといって、むろん、普遍主義者の帝国的=市場的救済プログラムやまたそれと相互補完的な微温主義運動(アソシエーション、サウンドデモ、アートゲリラ、エコロジー、マルチチュード、「ポップ」で「多様」で「開かれた」すべての自己欺瞞・・・)の側にも立たない。先進諸国最下位まで没落した日本に栄光よもういちど、といった国力/公共性再構築論は論外だ。つまりは、ぼくは、いま現実的だと信じられているすべての政治的アクションを支持しない。
なぜすべてを支持しないのか。それは、ぼくたちにはいま、そのいずれにも分類されない、新しい選択肢が与えられているからだ。徹底した帝国化、徹底した市場化、その果てに到来するすべての原理の反転という可能性が。
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ぼくたちの目的はなにか。それは地下室人を救うことだ。
では救うとはなにか。それは決して、地下室人を自室から引きずり出し、上下で5000円のスーツを着せて手取り14万円の職場に送り出すことではあるまい。ぼくたちの社会は、たとえそんな選択肢を用意しても、職場に行かない/いけない地下室人を無数に生み出している。それこそが問題なのだ。
ではなぜ彼らは行かないのか。理由は簡単だ。労働では彼らの尊厳が満たされないからである。
ぼくたちの社会は、1世紀前に較べれば飛躍的に高い生産性を実現している。世界はモノに溢れ、市場は解放され、ぼくたちはある意味できわめて豊かな時代に生きている。実際にこの日本でさえ、若者が餓死するのは容易ではない。それなのに、ぼくたちは恥辱に塗れ、疲弊し、生きる意思を失っている。日本では治安の悪化は失業率の上昇を振り切っている。同じ現象が世界中で起きている。ロンドンでニューヨークで上海でドバイでムンバイで、決して餓死することはないが、しかしそれ以上ではない、生きる意思を奪われた「ムーゼルマン」としての労働者 = 消費者が増殖している。ぼくたちの世界が荒れているのは財が足りないからではない。
ひとはパンのみで生きるのではない。いまやもっとも重要な問題は、富の再配分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分と言ってもいい。そこで問題を縁取る最も過酷な条件は、 世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」 でいくらでも増やすことができるかもしれないが、 世界の尊厳=希望の総量は決して変わりはしないと言う単純な事実だ。ある個人の尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ、地下室に堕ちる。
ぼくたちは、人類の全員に尊厳を配分することができない。
だとすれば、ぼくたちにできるのは、地下室人を地下室人のまま生かし続けることしかない。彼らの呪詛を呪詛として受け止め、その言葉を決してどこにも届けることなく、尊厳が奪われた亜人間の生をそのまま受容する空間を用意するしかない。 地下室人を人間に引き上げること、昇華=止揚する事は、決して彼らを救うことにならない。それはまた別の地下室にを作るだけだからだ。
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尊厳なしでひとが生きることができる世界を作れ。
あまりにシニカルで、荒唐無稽で、そして法外な命法だろうか?
しかし、ドストエフスキーの問題提起は、まさにそのようなものだったのだ。彼は地下室人を、あらゆる救済に抵抗するあまのじゃくとして描いた「それにしても、22が4 言うのは鼻持ちならない代物である。22が4と言うのは、僕に言わせれば、破廉恥以外の何物でもない。22が5 だって、ときには、なかなか愛すべきものでは無いのだろうか。/それにしても諸君は、ただ 正常で、肯定的なもの、つまりは泰平無事 だけが人間にとって有利であるなどと、どうしてまたそれほど頑固に、いや誇らしげに確信しておられるのか?」ー地下室人は22が4に抵抗する。数学的真理にさえ抵抗する。彼はあらゆる光の外側に、理性の弁証法の外部に止まりたいと願う。このような暗く内向的な、自己懲罰的ですらある愁訴は、この2世紀のあいだ、もっぱら文学者と宗教家だけが掬い上げてきた。
しかし、ぼくたちには、このブログで繰り返し述べてきたように、いまやその訴えを工学的に掬い上げるテクノロジーがある。
カントの命法を反転させたとして、つまりは「君の意思の格率は、**たとえ君がどのような行為をしたとしても**、いつでも同時に普遍的立法の基礎として計算される」ーそのような命法を仮定したとして、それを実現するための技術がある。
グローバル・ベーシックケイパビリティとクォンタム・ライフログ。その構想は、地下室人の世界への「貢献」を、その現実的可能性/現実的消費だけではなく、彼らが地下室人に陥らなかったときの反現実的可能性/半現実的消費を含めたうえで算定し、計算して資源を割り当てる様相厚生経済学の可能性、地下室人を地下室に放置しながらその宿命から仮想敵に解き放つ可能性、言いかえれば、富はそのままにして、尊厳だけを無限の可能世界から調達することでその総量を爆発的に増やす可能性を示唆している。そして、もしその可能性が本当に掴めるならば、ぼくたちは、地下室人を地下室に放置し、彼らに何も要求せず、尊厳を傷つけず、ただ世界の豊かさを拒否させておき、それでも世界全体は普遍的合理性に則ってうねいされるような、そのような世界を作ることができる。
だからぼくたちは、グローバル化、新自由主義か、監視社会化をおしとどめるのではなく、むしろその流れをはるかに徹底して、臨界まで推し進めなければならない。マルクスがかつてブルジョワ資本主義について述べたように。
ベルジェーエフは、ドストエフスキーの可能性をとロシア正教的な感性に見た。「ドストエフスキーは、言葉の最も深い意味におけるキリスト教的作家であった」。キリストと真理が対立するのであればキリストの側につく、と『悪霊』のスタブローギンは言う。それは世界文学史においてもっとも感動的な場面のひとつだ。
しかしぼくは、未来の地下室には、宗教的にではなく工学的に救われるべきだと考える。それこそがぼくたちの希望だ。
その希望の実現のためであれば、さきほどの言葉と矛盾するようだが、ぼくはテロリストの汚名を被ることすらおそれないだろう。
『クォンタム・ファミリーズ』
わりとうっとりしてしまう文章だ。メルカリで買ったこの本には、「徹底した帝国化、徹底した市場化、その果てに到来するすべての原理の反転という可能性が」の部分に「クソワロタ」と、書き込みされている。クソワロタ。だよね。
さて、誕生日だった。なんだかんだ祝ってくれた人ありがとう。今年はみんなの誕生日をできるだけ祝いたいと思います。特に意味もなくセブンでケーキを買った。ひとりで食べた。
hoi4をやりたいなと思ったのでsteamを見てみたらめっちゃ安売りされてたので買ってしまった。40年代に戻って帝国主義をやり直す仲間を募集します。ちょっとどうやって進めたらいいかわかりません。助けてくれ。
それと好きな人のシャンプーは間違っても買わないことをおすすめします。が、万が一買ってしまった場合、リンスだけは違うのを買いましょう。なんとかごまかせます。好きな人のリンスを買ってしまった場合はシャンプーで誤魔化せないので注意が必要。「ちょうどいい心の傷」は好きな人のシャンプーの匂いを嗅ぐことのできる、お風呂で髪を洗ってリンスするまでの数分間、に訪れます。
みんなの今日