日記 / 2023年12月4日

12/3

鼻。

3分 · 1801字日記12月

TAの授業で中洲に来た。中洲のドトールで書いている。

鼻の虜である。

なぜ、こんなに、こんなに鼻に惹かれているのだろうか。 鼻について考えてみようと思って千葉雅也『意味がない無意味』を買って、「森村泰昌の鼻」を読んでみた。

森村泰昌 - Wikipediaについては調べてもらうとして、千葉雅也は「森村泰昌の鼻」で何を言っているのだろうか。

森村泰昌自身は鼻についてのコンプレックスがある。鼻が大きい、というコンプレックス。 彼が女装ないし変装する一連の作品において、鼻というコンプレックスな身体の消去と現前が問題になっている。

つまり、鼻はコンプレックスであるが、作品のシグネチャーとして、彼自身の作品を示すものとして鼻が欠かせない、ということ。

そのとき森村は、「私」という人称性を超えたというかその傍らへ踏み外したところで──paraという接頭辞の二つの意味であるbeyondとbeside、これを応用していく(注17を参照)──、「なにものか」としての身体のますます輝ける、盛り上がった強-現前性を発揮するようになっていったのではないだろうか。千葉雅也. 意味がない無意味 (p.61). 河出書房新社. Kindle 版.

踏み外した先に何があるのだろうか。

触覚的な立体性と視覚的な平面性の融通である。女優森村は、「目によって触れたい」、「手によって見たい」という欲望をそそるのだが、そのとき彼=彼女は、(ⅰ)触覚的な立体性/視覚的な平面性のあいだで宙づりとなり、在るのだが不在感を持ち、不在だが存在感を持つのと同時に、(ⅱ)しかし過剰なまでの、明らかに謎めいた「現前性」を充たして光り輝いている。千葉雅也. 意味がない無意味 (p.60). 河出書房新社. Kindle 版.

とのこと。 目によって触れたい。手によって見たい。 これははっきり言って僕が低い鼻に思っているのとほぼ同じ。

触覚的な立体性と視覚的平面の宙吊りによる存在感ねぇ、、

まぁいいか。一旦置いといてもうちょっと読み進めると、千葉雅也は常識とかけ離れたとんでもないことを言い出す。

鼻の盛り上がりが、ペニスだ と言うのだ。 それはラカンとコンプレックスを結びつければ、まぁ一応は言えることには言えることではある。

そして続きを読むとふざけてんのかとおもうことが大真面目に書いてある。

鼻においてこそ、ペニスとヴァギナが共存すると考えることもできるかもしれない。鼻は、ペニスのようにマウンドであると同時に、穴が分身的に二つ存在し──両性の不可能なる対応関係(ラカンが言うところの「性関係はない」)を傍らに超える分身化として、(少なくとも)二つ──、それらが内室へと通じるのだが、そこはヴァギナのように襞状のマウンド群の入りくんだ地理となっている。 千葉雅也. 意味がない無意味 (p.71). 河出書房新社. Kindle 版.

うーーん。。

最後の引用。

パラマウンド、それはファルスを傍らに超えた、丘、塚、墳墓。「パラマウントparamount」と見紛うもの。パラマウントは「至上の」という意味だが、それは「上にamount」+「達するpar(per)」ことである。「上に乗るmount」は「交尾する」ことでもあるから、パラマウントはつまり生殖的絶頂である。しかし「par」で切らずに「para」まで膨らませることで、パラ-マウントは、交尾することを傍らに超える。そして、マウントに力みを入れてマウンドに変えれば、生殖的絶頂を傍らに超えた盛り上がりが得られる。 千葉雅也. 意味がない無意味 (p.72). 河出書房新社. Kindle 版.

うーーん。

クィアの文脈だからそんなこと言ってもどうしようもないのだが、うーーん。

射精から逃げるのがそんなに大事なことなのだろうか。とヘテロ男性としては開き直って見たくもなる。

一旦全てを飲み込んで、そういうことにしてみよう。。 パラマウンドとしての鼻。 ペニスとヴァギナの両義性としての鼻。

para-mount、上に乗ったら滑り落ちてしまう。

Cosmic Dance / 2023年12月4日
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