日記 / 2023年5月16日

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21世紀の言葉と物が必要。

3分 · 1976字日記5月

最近よくAIが生成した実写っぽい画像を見かける。

AIが生成したオタサーの姫画像、オタク達がイケメンすぎる pic.twitter.com/yAJ045fylP

— めぐみしま🍄 (@ryyyyyyyo) May 13, 2023
例えばこういうやつだけど。

総じて不自然だ。何が不自然なのかと考えていた。

おそらく、全員がカメラ目線なことだ。 まぁ技術的にはcontrolnetを使えば目線制御できるっぽいけど、

そういえば、コロナが始まってzoomが普及してからは視線が合わないことがしきりに話題になっていた。

あるいはzoomで自分ばかり見てしまう問題とか。

まぁzoom問題の要点はこうだ。

zoom越しに人が見ているものは目線の合わない他者であり、かつスクリーン上の自分である。 他者と自分はスクリーンという空間上で全く同質のものである。他者を〈見る/見られる〉という関係がなくなった空間。そしてそれを見る自分がここにいる。

大山顕さんはそれをゲーム実況の視聴者に例えて4人称的という言葉で表した。

と、ここまで書いてなんかめんどくさくなった。

フーコーは言葉と物の一章を、ベラスケスの『ラスメニーナス』の分析に割いている。

そこでは、「不可視のものの可視性」がテーマになっている。

ラスメニーナスの絵画の説明はwikiを。 鏡という装置が描かれ、機能することによって鑑賞者と国王夫妻という「不可視のもの」が同一の空間に施行される。

この絵がいわばその本質をあきらかにしているあらゆる表象関係におけると同様,見えているものの底知れぬ不可視性が―鏡や反映や模倣や肖像にもかかわらず―見る人の不可視性と固く結びあっているということであろう。なるほど,場面のまわりには表象関係のおおくの記号とその継起する諸形態が配されてはいる。けれどもそのモデル,その至上なる君主にたいする,その作者,および絵を捧げられる人にたいする,表象の二重の関係というものは,かならず断ち切られているのだ。

ちょっと表象の二重の関係という言葉が難しいけど、断ち切られている。から読むと、国王夫妻がこの画家の視線に「画面上」いることと我々がこの画家の視線に「実際に」いることの違いのことだと読める。

そしてフーコー曰く、これが表象の危機であり、新しいエピステーメー(知の配置)であるのだ。

ではAI時代のラスメニーナスを考えてみる

ここで目線の問題に戻ってくる。

AI生成画像が不自然なのはこちらを見ていることだった。 zoomの視線の問題はスクリーン上の自分と他者の視線は合わないまま、こちら側身体を持った「自分」がどちらも同質のものとして「見る」ことだった。

そしてラスメニーナスは鑑賞者側へと表象を折り返してくることで、表象の基盤を失った絵画が

表象を基礎づけるものの消滅」,すなわち視点をひとつ に固定するような,「主体そのもの」の省略としての「本質的な空白」化が示される。そして,「自 由」の身となった表象は,「純粋な表象関係として示される」ように,「底知れぬ不可視性」を「ひらく空間」をわれわれのまえに呈示するのである。

らしい。

じゃあもし、AI生成画像が「自然に」目線を逸らしたら?「こちら」でもなく、生成画像に表象されてもいない「何か」を見ているとしたら? そこで生成画像内の人物は何を見ているんだろうか。

それはもうこちらにはない何かで、もうどこにもないあちらの自然な気がしてならない。 そしてそこに人間はいなくていい気がする。

「自由」の身となった表象は,「純粋な表象関係として示される」ように,「底知れぬ不可視性」を「ひらく空間」はもはやわれわれの前にはない。

Cosmic Dance / 2023年5月16日
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