日記 / 2024年1月22日
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この2日間おかゆとゼリーしか食べてれていないが、なんとかなっている。
カロリー絶対足りんし痩せそう。
修論について
修論も卒論も基本的に「出せばいい」のだから、落ち着いたところで提出すればよかったかな?どうせ修論一つでアカデミックに何かを成し遂げるなんてことはないんだから、さっさと見切りをつけたほうがよかったのかな?
まぁ常識的に考えればそうだろう。基本的に出したものなんて読み返されないので、「出せばいい」のだ。読まれたとしても向こう5年間くらいの研究室の後輩たちにパラパラめくり返されるくらいだろう。もしかしたら本当にアカデミックに何かを成し遂げている人もいるかもしれないので、それはすごいことだと思うが。
とはいえ、結果が出るとか出ないとか分析結果がどうとかとは全く別の次元で、論文の論理的な流れとは別に、論文を書くあるいは文章を書くときに、向き合うべき次元が生じてくる。で、それに向き合うことが「どうせアカデミックな意味なんてないんだし」に対してのある種の回答になる。
結局のところ、修論を書く過程は「アイロニー」と「ユーモア」だったのだ。
アイロニーは、皮肉であり、ツッコミであり、要するに先行研究に対しての立ち位置である。
ユーモアは、しゃれであり、ボケであり、要するに本研究における新規性、特色、(個人的なレベルでの)こだわりである。
このアイロニーとユーモアの往復の過程にこそ、個人のレベルが浮かび上がってくるのである。 一般にそれは仮説検証のプロセスとして知られているが、仮説検証はボケとツッコミの往復のわずか一部分である。
ボケとツッコミで考える論文の構成
- 序論 ->先行研究に対してツッコんだあと、ボケる。
- 背景的なことろ -> ツッコミが基本だが、ボケ方はいくらでもある
- 実験とか考えてること->盛大にボケる
- 結果など->セルフツッコミ
- まとめと展望 ->セルフツッコミをした上で、最後もう一回ボケる。 って感じだと思う。
そう考えるともっとツッコミできるし、ボケもできるはずである。というか行き着く先は「ナンセンス」なので、一度その次元まで頭の中で行ってしまってからじゃないと文章のそもそもの意味自体が立ち上がってこない。その過程さえ踏めば、アカデミックな意味も勝手に生まれてくるはずだと思う。
先行研究に対して、どうツッコむか、どうボケるか、の次元にはじめて論文という形式に結びつく個人の次元が生じてくるわけで、だからこそ(どうせアカデミックな意味なんてないんだし)結果が出て終わりとか、整合性取れたから終わりって言われてもあんまよくわからないのである。
ぼくは別に他の人の論文の内容に興味ないけど、全然違う分野でも分かりあえる瞬間があったのでそれは嬉しかった。
みんなの今日