日記 / 2023年11月6日

11/6

今週の日記

6分 · 3328字日記11月

今週の日記

前回から時間空いたので1週間の振り返りします、、、

10/31

Tinder活動した以外の記憶なし。 勃起不安からレビトラ半錠飲んだ。レビトラとシアリスの成分を調べた。PDE5っていう酵素があるらしく、これが神経伝達(勃起シグナル!)を抑制するらしい。神経生理を阻害する酵素を阻害するための対症療法。

医学によれば、勃起しないのはPDE5のせいなのだ。一応説明可能である。PDE5阻害薬を飲めば、ちゃんと、勃つんだから。

ただ、その説明に納得しかねる部分があるのは、なぜPDE5が発生してしまうのか、その原因がわからないからだ。ちなみに、bingAIに聞いたけどわかりませんって言われた。レビトラでもシアリスでも、飲めば、健常な人間として勃起して性行為することはできる。しかし、依然として、なぜそれを飲まないとできなくなったのかは全くわからないまま。いつから薬を借りて正常にならないといけないのかはわからないままである。

ここで思い出すのは、OPNの楽曲『Love in the Time of Lexapro』。レクサプロ時代の愛。レクサプロは抗うつ剤。鬱はセロトニンの低下によって引き起こされることになっているので、レクサプロはセロトニンの阻害を阻害する。鬱は一般に3~6ヶ月くらいで治ることになっている。問題はどうして鬱になったのか、なのに対症療法で治ったことになってしまう。 いわゆる愛情ホルモン、セロトニン。レクサプロ時代の愛とは、神経生理学的に直接、愛をやること。

かつて、はるしにゃんは「超越論的なものが生理学的ないしは経験論的なものに回収されるならもう筋トレするしかない」とツイートした。 仮にバイアグラ時代のセックスを考えてみると、「超越論的なものが生理学ないしは経験論的なものに回収されるなら」「もうバイアグラを飲んでセックスするしかない」だろうか。遅漏になるから、単純に筋トレにもなるし笑 自ら進んでファルスになること。

全然ダメダメな文章から始まってしまった。

11/1

バイトした。深夜3時にマックを食べて、気絶してしまった。kzwmnの失われた時を求めてを買った。

11/2

天神で並ぶ寿司屋こと、さしすに行ってきた。寿司なんて魚の油と醤油を食べてるだけでしかないのに、美味しいからすごい。すごい綺麗な寿司だった。脂塗ってんのかってくらいテカってた。その後ニパチの卓上レモンサワーでめっちゃゲロ吐いた。 ちなみにこの日もtinder活動だが、その子の元彼は僕の学科の一個上の先輩らしい。誰か聞いたけど教えてくれなかった。まぁいいや。

# 11/3 この日も博多で寿司食べた。インスタライブして帰った。あんま記憶ない。
# 11/4 あんま覚えてない。 進撃の巨人最終回だけ見たがよくわからなかったので寝落ちしてしまった。

11/5

数年ぶりに焼肉に行った。焼肉って、肉の油とタレを食べてるだけなのに美味しいからすごい。ホルモンをじっくり焼いている間「肉を焼くという労働をさせられている」と思った。そういう意味では卓上レモンサワーも、ドリンクを注ぐという労働だ。

鍋を食べに行って、具材に火が通るのを待ってるあの時間も、結局は労働の時間だなと今更気づいた。鍋の具材に火が通るのを待ちながら、汁をかけたりしてる時間は忙しくないバイトの気分に似ている。

11/6

ビーリアルについて考えたいと思った。なんか難しそうなので諦めたけど、もう一回頑張ってみる。 剥き出しの生とか、生権力とかかなと考えてみたけど、なんか凡庸になりそう。

ビーリアルの何がリアルなのか!

ビーリアルの中で一番良い投稿は、何もしてない時のやつ。部屋でぼんやりしてる時の通知、あー何もしてないなと思いながら、何もしてない投稿をすると、何もしてない人がいる。

そこに写ってるのは部屋の壁とか天井とか。要するに何も写ってないし、何も表象してない。シュミラークルの時代には、記号が氾濫して、人々は記号とコードを読み解く世界になっているなんてよく言われるけど、(ワンピース考察のドロピザなんてまさにそればっかりだ。)別に知らないけど、インスタグラムとかもどうせそう言われてるんだろうし、実際にインスタグラムはめっちゃ意味と記号ばっかりだ!でも。別にビーリアルには記号がない。自撮りとかはもちろんあるけどね。

ロラン・バルトは『明るい部屋』で写真の本質を「それはかつてあった」と記した。それはかつてあった。フィルムで撮られた写真には、被写体から反射する光が記録されている。それはかつてあった。フィルムに刻まれた光の物理的な痕跡。ただ、バルトが言ってるのはそんな単純でもなさそうだ。

今日、 〈写真〉の注釈者(社会学者と記号学者)のもとで 流行になっているのは、 意味論的な相対性である。 つまり、 「実在するもの」はなく(写真がつねにコード化されてい ることを欲しない「実在論者」に対する大いなる軽蔑) 、 ただ人為的なものしかないというのだ。

これはさっきのシュミラークルの話を社会学者と記号学者といって、そいつらの写真批判をまとめてる。とはいえこれは全然新しいことじゃない。 バルトは続ける。

実在論者、 わたしもそのひとりであり、〈写真 〉 はコードなきイメー ジである−−たとえあきらかにコードが読みを屈曲させる のだとしてもと主張したときにすでにそうだったところの実在論者は、写真を実在するものの「コピー」とみなしているのではまったくない--むしろ、過去の実在からの流出とみなしているのだ。

うんうん。「かつてそこにあった」だもんね。

バルトが指摘するには、 現代では人々よりもイメージのほう が生き生きとしていて、 人々は社会に溢れかえったイメージに みずからを適合させないかぎり享楽を得ることができなくなっ ているという。 わたしたちの享楽は実在との結びつきを失い 、 ただイメージによって、 イマジネールにしたがってのみ動く。 イメージは実在世界に取って代わり、 すべてを非実在化してい く。

これは、割と構築主義とかシュミラークルっぽいけど、なんかどっちつかず。 バルトはその上で、写真を見る主体についても言及する。

結局のところーあるいは極論すればー 写真をよく 見るためには、頭を上げるか目を閉じるかしてしまったほうが よい

これはマジでビーリアルだと思う。どんな文脈で言ったのか知らないけど、スマホから目を離して頭をあげれば、そこには何も写ってない壁があるんだよ、目を閉じてもそこには何も写ってないんだよ。

そして、その写真と見る主体が同一化していくという。同一化というのは、ここでは主体が写真になるというよりかは、写真に自己を投影する的なニュアンスだと思う。見る人と写真という関係から、写真と主体との関係へ。

何も写ってない写真になんの意味があるのか。 意味なんてもちろんどこにもないんだけど、そこには見る自分と見られる壁の写真という主客がきっぱり別れた関係ではなくて、さっきまで同じように壁を見たり天井を見たりしてたことを思い返しながら、壁写真の投稿を見る自分がいるのだ。

バルトは雰囲気とか言い出すらしいけど、何もしてないで一日部屋で過ごした時の部屋の壁の雰囲気、ソファでグダグダしてお腹空いたから立ち上がった時の立ちくらみしている時の、あの、部屋の壁の雰囲気。

それはかつてあった。というのは、あの暗い部屋の自分なのかもしれない。

Cosmic Dance / 2023年11月6日
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